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2019年01月22日(水)
小室哲哉氏が引退、不倫報道への逆風

「ようやくか」──。

 

半ば呆れと期待が入り混じった複雑な感情を抱きながら、人々の怒りのコメントを見た。数々の芸能人や有名人の不倫を世間に晒した「週刊文春」が、インターネット上で炎上状態となっている。文春は先日音楽プロデューサーの小室哲哉氏の不倫疑惑を報じた。小室氏は報道を受けて19日に記者会見を開き、「騒動のけじめをつけたい」として芸能活動から引退することを発表した。

 

小室氏の引退にネット上では「廃刊しろ」、「パンドラの箱を開けた」、「面白おかしく他人のプライベートを取り上げてろくでもない」などと言った声が聞かれた。私は世間が不倫報道をもてはやしていた当時から不倫報道に対する違和感をこのサイトで表明してきた。いま、こうして文春を叩いている人間のなかで、不倫報道が出るたびに一緒に叩いていた人間が何人いたのだろうかと呆れながらコメントを見た。

 

不倫報道に関して私が主張していた記事は以下の通りである。

 

文春砲が喝采を浴びる昨今、週刊誌のスキャンダル記事に価値はあるのか」(2016年12月10日付)「自説|過熱するスキャンダル報道、“人の不幸は蜜の味”な国にするな」(2016年4月10日付)「<不倫報道>不倫をして議員辞職・離党する必要はあるのか」(2017年9月12日)「ベッキーの不倫疑惑報道に思うところ」(2016年1月11日付)「自説|ベッキーの謝罪は必要だったのか」(2016年5月14日)「自説|二重人格は社会の必要悪 人間誰しもガス抜きが必要だ」(2017年1月17日)

 

誰かが犠牲にならなければ世論の風向きは変わらないだろうと思っていたが、小室氏の引退を受けて少し世論が変わったようだ。芸能人の不倫を報じたところで、何を産み出すわけでもないと「世間」がその本質を見極められていれば、小室氏は引退せずに済んだかもしれない。その意味で不倫報道を楽しんでいた読者やネットユーザーにも、批判の矛先を向けねばならない。

 

不倫報道そのものも問題だが、「世間の不公平な判断」も問題だ。多くの人々は「好き嫌い」で物事を判断している。好きな人間ならば擁護し、嫌いな人間ならば徹底的に叩く。過去には芸能人の子どもが犯罪をした時、親が好感度の高い芸能人の場合には擁護のコメントがずらりと並び、嫌われていた場合は親ともども批判されるということもあった。不倫でも人によっては犯罪者以上にバッシングされ、人によっては特になんの影響もないということがよく見られる。最近は悪事を働いた人間を晒し者にしてなんでも「社会的制裁を加えよう」という風潮が強く感じられるが、公平な視点で判断できない世間が制裁を加えようとするなどもってのほかだ。

 

誰かを晒し者にしようという動きがあれば、第三者は客観的にその動きを見なければならない。その行為を肯定してしまった時、好き嫌いで判断していないかをしっかり考えるべきである。もし好き嫌いで判断していたら、いじめは悪いと分かっていても、いじめられている人間が嫌いな人間だからいいやと、人によっていじめを肯定するのと同じなのである。

 

…と多くのネットユーザーの手のひら返しを呆れつつも、人間だれでも誤認識はあるものだ。開き直らずに考えを改め直したというのであれば、それまた評価されるべき行為である。私自身も認識を間違えて、変節したことは何度もある。感情的にそこを責めても仕方あるまい。

 

それよりも、ようやく人々が「不倫報道はなにも産み出すものはない」考えるきっかけになった。自ら辞したこととはいえ、一人間の職を奪うほどまでに報じる価値はあったのか。小室氏の引退は音楽業界にとって大きな損失かもしれない。せめて社会にとって週刊誌の不倫報道のあり方を問い直すことが社会にとって利としなければならない。何かを犠牲にして、何かを失ってはじめて気づく。我々人間は愚か者であるということを改めて実感させられる一連の報道だった。


  

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