好きなことを好きなだけ表現する

個人ニュース、コラム、写真などコンテンツ豊富なオピニオンサイト

正月に見た異なるジャーナリストの姿

正月、政治討論番組で話題になった「朝まで生テレビ」。お笑い芸人でウーマンラッシュアワーの村本大輔氏の発言が大きな注目を集め、ネットでもさまざまな場所で議論が沸き起こった。村本氏は炎上状態になってしまったようだが、様々な場所で多くの人がこの問題について考え直し、自らの意見を述べたことは意味があったに違いない。

 

しかし、それ以上に私が注目した政治討論番組がある。こちらも正月の政治討論番組としてお馴染み、2011年から毎年放送されているBS朝日の「いま、日本を考える」である。今年は朝生でお馴染みの田原総一郎氏、三浦瑠麗氏、井上達夫氏、小林よしのり氏なども出演。朝生に比べ人数が少ないからか、それとも編集されているからか、「見やすさ」はこちらに軍配があがったように思う。尤も編集がないところが朝生の良さでもあるのだが。

 

その番組のなかで、私が最も注目したのは東京新聞論説委員の長谷川幸洋氏と元共同通信社記者の青木理氏の二人のジャーナリストだった。同じジャーナリストでも彼ら二人のジャーナリスト観は大きく異なり、それがぶつかりあった場面があった。

 

小松靖アナウンサー「史上最悪の政権だ安倍内閣はと言うんであれば、青木さん。対案がないと説得力伴わないですよ。その話をしようとすると私は政治記者ではないのでっておっしゃるんですけど、そんなことは関係ない。社会部の記者としてこれまでの知見を集結すれば一つの答えは十分出せると思うんですよ」

 

青木理氏「例えば一有権者としてこういう政党があって欲しいとか、こういう政党が出てきてこう言う政治家に投票したいなっていうのはもちろんありますよ。しかし、ジャーナリストという存在が果たして対案を出すべき存在なのかと僕はずっと疑問に思っているわけですよ。有名な言葉があってね、『蟋蟀(コオロギ)は鳴き続けたり嵐の夜』っていう有名なジャーナリストが綴った句なんですけども、僕ら基本的には鳴き続けるのがジャーナリストの仕事であって、じゃあ対案を出すのはそれはもしかしたらテレビ朝日だったり、番組の責任かもしれないし、あるいは政治学者だったりとかの責任かもしれないけれども、少なくともジャーナリストという立場で安倍政権のこれに対するこの対案はこうですよっていうのを出すのは僕は仕事だとは思っていない」

 

「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」という句は、明治から昭和初期にかけて活躍したジャーナリスト桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)の作句だ。桐生は社説で「敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」と書き、当時関東で行われていた陸軍による大規模防空演習を批判した。首都防空の前の段階で撃ち落とさなければ、撃ち漏らした爆撃機が木造家屋が多い東京を焦土化させてしまうと警告したのである。こうした軍批判主張を続ける桐生は何度も新聞社から追い出されるも、自ら創刊した雑誌で主張を続けた。結局その雑誌も軍当局から発売禁止措置を取られるなど弾圧されてしまったが、「反骨ジャーナリスト」として今もその精神が受け継がれている。

 

一方、長谷川氏はこう述べる。

 

長谷川幸洋氏「野党が政権交代を展望できないのは、まさに今の問題なんですよ。つまり、まともな対案なるものがない。彼らの定義は政権に反対するのが俺たちの仕事という風に思っている。その限りではいつまでも永遠に野党でいてもらうしかない。ジャーナリストも同じことで、政権を批判するのがジャーナリストだ。と、こういう定義をするならばいつまでも『アンチ政権』ということになる。私のジャーナリストの定義は全く違います」

 

長谷川氏は週刊ポストで連載していた「長谷川幸洋の反主流派宣言」のなかでも、「私は政権と戦うのがマスコミの使命などとは、まったく思っていない」と述べている。

 

相反する2つのジャーナリスト観がぶつかったのは実に面白い。青木氏と長谷川氏が二人で「ジャーナリズムについて」を永遠と議論する番組があってほしいと思ったほどだ。ラジオ番組ででもやってくれないだろうか。

 

ジャーナリズムとしての「権力の監視」は民主主義国家として非常に重要だ。国民の多くはマスメディアを通じて情報を知る。そのマスメディアが権力の言うがまま報じれば、腐敗した権力だった場合、国民生活に大きな支障が出る恐れがある。その意味でジャーナリズムとして「権力の監視」が重要なのは改めて言うまでもない。

 

私も記者見習いとして入社した際に、社長から「権力の監視」の重要さを少しだけ説かれたことがある。多くのジャーナリストが反権力の重要性を理解しているのは間違いない。

 

ただ一方で長谷川氏の主張を聞いて、私はちょっと嬉しくなった。この相反する2つの価値観それぞれがあって「健全」というものだと感じたからだ。反権力はジャーナリズムにとって大事ではあるが、強すぎれば時にそれは「ミスリード」を引き起こしてしまう時もある。かといって反権力精神がなければ、権力の暴走を許してしまう。ジャーナリストはこの2つの「自負」と「批判」に板挟みになりながら、取材をして筆を走らせるのだ。

 

そしてその相反する2つのジャーナリスト観を持った媒体が、お互いを監視しあってバチバチ言論で対決することが良い。個人的には一新聞社のなかでバチバチ対立しながら、多様な意見を掲載するのが最も望ましいと思っているのだが、そうもいかないのであれば、媒体同士で言論を戦わせているのが健全だ。各新聞社それぞれ主張が異なっていて、それぞれに批判や賛同があることこそ、”民主主義”だと思っている。いまの問題は読者が1紙しか購読できない場合が多く、バランスを欠いてしまうことである。

 

青木氏のような主流派ジャーナリストが、執念を燃やして権力の腐敗を暴き出すことは国民にとって有益になるし、それが行き過ぎにならないように監視し、ただ反権力にならないように多様な意見を述べる反主流派の長谷川氏のようなジャーナリストもまた読者にとって有益になる。お互いに行きすぎれば、どちらも読者にとって不利益になることがあるからこそ、この相反する価値観を持つジャーナリストがそれぞれの新聞社にいてほしい。

 

何にも面白くもなんともない意見になってしまうが、私はこの異なるジャーナリスト2人とも必要であり、一歩間違えれば危険だとも思っている。健全な民主主義のためには、何よりも読者自ら様々な言論を積極的に欲し、判断する力を身につけることが必要だ。実はジャーナリストだけでなく、読者自身にも求められるものは大きいと私は思っている。


  

FavoriteLoadingこの記事をクリップリストに追加する 
SHIGEFIKA会員ログイン




パスワードを忘れた
新規登録
SHIGEFIKA会員とは
週間人気記事ランキング
最新記事
更新情報/Twitter
常論新聞
編集部からのお知らせ