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SNSの発達で日本から失われる「叱る」という概念

毎日のように起こるインターネットの「炎上」。最近ではフジテレビのワイドショー番組「ワイドナショー」でNGT48の暴行事件を取り上げた際に、HKT48の指原莉乃さんが「私がトップに立っても何もできないと思う」と発言し、それに対してお笑い芸人の松本人志さんが「そこはお得意の体を使ってなんとかするとか」と返したことがSNSを中心に「セクハラ発言だ」と炎上することになった。

 

もしも指原さんが冗談でも許せない発言だと思ったら、セクハラと取られても仕方ない発言である。しかし、私はそれよりも真剣に関連グループの事件について語っている指原さんに対し、その言葉の重みを薄めてしまうような「空気が読めない」発言だったことが問題だったのではないか。お笑い芸人として雰囲気を変えたいとするのは分かるものの、事件内容と指原さんが多くの人に伝えたいと運営を批判する覚悟を持ってあの場に出てきたことを考えると、あの場面は笑いにするよりも、真面目な雰囲気を貫いたほうがよかっただろう。

 

しかし、許せないと思うか、許していいと思うかには個人差がある。本人たちにしかわからない関係性を無視して、第三者が「セクハラ」と糾弾するべきだろうか。指原さんも冗談と分かっていただろうし、空気を読むことは咄嗟にはできない時もある。この発言に対し批判が出るのは結構だが、鬼の首を取ったかのように「炎上」するのはやや行き過ぎに思える。ただ、大御所と言われる芸能人に「NO」というのは、なかなか難しいことではあるのは確かだ。日本の厳しすぎる年功序列や縦社会といった文化を、見直さなければならない時期にきているのは間違いない。女性に関わらずだれもが「NO」と言いやすい社会にするのは重要だ。

 

見ていられない”日本の言論空間”

 

このような炎上が大きいのも小さいのもあわせて、毎日のように起こっている。私自身ツイッターでよく情報収集したり、著名人のつぶやきをチェックするのが好きなのだが、日本の言論空間がひどいと感じるのは私だけだろうか。もともとその場の雰囲気が賛成なら賛成意見ばかり、反対意見なら反対意見ばかりという「雰囲気に流されやすい」というのが日本の言論空間の特徴だった。

 

それがさらにSNSになると言論が「幼稚化」してしまう。活発に議論が交わされるのは良いものの、その様子はまさに「子どもの喧嘩」。一般人ならまだしも、学者や議員、マスコミ関係者などの識者までもが子どものように熱いレスバトルに精を出している始末。発言内容も醜い言葉で罵ったり、皮肉たっぷりに誰かを個人攻撃するかの内容だったりで、辟易するようなものばかりだ。過激な意見ほど目を引きつけ、「いいね」などが得やすいというのもあるだろう。なかにはフォロワーを集める戦略としてやっている人間もいるに違いない。こうした環境によって言論空間の劣化に拍車がかかっている。

 

「たかがツイッターに何を求めている」と言われればその通りかもしれない。しかし、いまや社会的に大きな影響力がある「ツイッター」を中心としたSNS・ネットの言論空間は無視できるものではない。このまま突き進めばいつか社会問題化したり、日本の大きな問題点となり、このまま突き進んで日本は大丈夫なのかと心配せずにはいられない。

 

「叱る」人間がだれもいないSNS

 

中でも最も危惧するのは「叱る」という概念が失われつつあることだ。間違いを犯した人物に”更生”を促すのが「叱る」というものだが、いまの社会にそれを求める人物がどれほどいるだろうか。誰かが何かをやらかせば「待ってました」と言わんばかりに、一斉に個人攻撃を仕掛けて社会から葬り去ろうとする者だらけである。これまた著名人から一般人まで多くがSNSで糾弾しておわり。本人たちは社会正義を達成したつもりかもしれないが、とある人物を社会から排除したところでなんの解決にもならない。

 

糾弾して社会から葬り去ることは容易だ。小学生や中学生でもできるだろう。しかし、人間は誰もが過ちを犯す生き物である。そんな人間に対し、「どうすれば間違いを犯さないで済んだか」という視点が圧倒的に足りていないように感じる。その点についてみんなで考えて本人に教えたり、情報を共有したほうがはるかに建設的なSNSの使い方であり、それこそ社会を良くすることにつながる。そういった使い方ができない社会はまだまだ未熟だと感じる。一般人だけでなく、著名人まで”誰かを糾弾するだけ”に労力を割いているのだ。

 

すこしでも間違いをすれば、すぐに個人攻撃と炎上の繰り返し。「批判」は重要だが、「批判」+「別の視点」「やり方」「考え方」などを相手に伝え、しばらく様子を見て更生を促すという段階を踏むべきだろう。個人的には社会的に抹殺しようとする動きに完全に同意することはできないが、しっかりと段階を踏んだ後でどうしようもないというならまだ理解はできる。現在は段階も踏まずに間違いを犯せば攻撃してすぐ抹殺という短絡さが際立つ。それらの行為は段階を踏んでいないことから社会正義というよりも、社会正義の面を被った自己満足にしかみえない。

 

本当に成熟した社会とは、社会全体で各個人を育てていこうとするものだ。「水は方円の器に従う」というように、人は環境次第で大きく変わってしまう。たとえどんな間違いを犯した人間であっても、それを育む環境を作ってしまった社会にも責任の一端はある。各個人が社会の一員であると自覚するのであれば、少なくとも一度は間違った人間の視線となり、どうすればよかったのかを考え、共有しあえる社会になりたい。その一歩として「叱る」というマインドを多くの人に持ってもらいたい。


  

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