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自説|議論する際は人格攻撃しているかに注視せよ


 

誰かと議論をしている時や議論をしている人間達を見ている時、私は常に注目している部分がひとつだけある。それは相手や議論している人間が「人格攻撃」をしているか否かだ。

 

議論していたのがいつの間にか言い争いになり、討論どころかただにケンカに成り下がる時がある。その時は大抵、議題の本質とは無関係な人格攻撃が行われているのだ。

 

人格攻撃を行うメリットは、人間としての信用度を下げることで相手側の説得力を剥ぎ落とし、人間性に勝る自身の主張のほうが正当であるかのように見せつけることができる。しかし、本当に議題に対して正しいか間違っているかは人間力ではなく、主張の道筋や根拠だ。どんなに品行方正な人間でも、その議題に対して正しい知識を身につけているとは限らない。どれだけ肩書きが凄い人間であっても、全ての主張が正しいとは限らない。「説得力」や「イメージ」は、時に人を騙す主観的なものなのである。

 

個人的には人格攻撃を行うのは、それだけ自分自身の主張に自信がない証拠なのではないかと思っている。自らの意見に自信があれば人格攻撃をするまでもなく、論法で私見の正当性を主張できるからだ。それが出来ないのは、相手の主張がそれなりに理にかなっていて自身の主張の正当性が危ぶまれている時や、ただ単に相手を打ち負かしたいという議論の意義から離れた悪意に満ちている時だ。

 

もしそんな人格攻撃をしている人間と話し合いを行っている場合は、ただちに引き上げるべきである。インターネットなどで見られる「ただ、相手を打ち負かしたい」という人々は何を言おうが相手がひれ伏すまで攻撃をやめることはない。インターネットで見られる炎上は、まさに「相手を打ち負かしたい」という者達が溢れた状態をいうのである。とある人間の主張に対して「まずお前は」「あなたには言われたくない」「その前に人間として」などと言い始めたら、それは人格攻撃をして相手を打ち負かしたい人なのだなと考えるべきだ。それはもはや議論ではなく、魔女狩りのようなものだ。本来は相手の主張に対する本質的なものを議論しなければならないのだから。

 

インターネット上の議論を見ていると、多くの人々に支持されることはそこまで有意性があるとは思わない。本質からかけ離れた「人間性」による判断で支持か、不支持かを決定づけているものが多いからだ。本来は、賛成・反対を自由に主張できる環境でなければならないが、ここで異なる意見を主張しようものなら人間として叩かれてしまうという空気に支配され、一方的な意見ばかりが埋め尽くされる。それがこの国の言論空間なのである。自由な主張を認め合わず、異なる主張に対して人格攻撃を行う罪はあまりに重い。

 

ただ、人格攻撃は誰でも行ってしまう可能性があるものだ。議論のはじめはそんなつもりはなくても、ちょっとした相手の言い方や、第三者に見られてつい調子に乗って「相手を打ち負かしたい」と思ってしまうこともあるだろう。それが自然な状態になっているのかもしれない。だが、議論を意識した話し合いの文化を定着させなければ、この国の言論空間はいつまでたっても発展途上のままだ。


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