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自説|人間の生きる意味

人間の生きる意味とはなにか。このテーマを考えるようになった時、それは人生に迷い、生きる活力を失っている証拠なのかもしれない。人類の根源的なテーマだが、深い考えが生まれそうで、考えれば考えるほど浅く、陳腐な考えしか浮かんでこない不思議なテーマだ。

 

私はなぜ生きているのか。それは「社会の役に立つため」もしくは「将来、社会の役に立つために自身の能力を向上させるため」だ。中学の教科書で習う「社会契約説」は代表的な論者としてホッブズ・ロック・ルソーがそれぞれ説を解いているが、政治体制だけではなく、もっと身近なところにも「社会契約」は存在する。

 

極めて単純な話だ。今年の10月に大隅良典氏がノーベル賞を受賞し、3年連続で日本人の同賞受賞となり話題となった。何故、大隈氏が栄誉を手に入れたのか。私たち日本人はそれを賞賛し、誇りに思うのか。社会=多くの人々がその恩恵に預かるからだ。言葉悪く言えば、今後人類多くの人間、世界中の人々に影響力を与えた(=役に立つから)である。

 

そもそも生きていくために、誰もが必ずやらなければならない仕事そのものが、誰かの役にたつものと定義してもいい。人々の役に立たない生業は自然と淘汰されていく。会社の有能と言われる人間が評価されるのは、自身の持つ能力が会社の利益=社会に役立つことにつながるからだ。

 

一方で、社会の役に立たないニートや、あまり役立っていない人々、少しの人間にしか役立たない人々は評価されることはない。どころか、非難される。そして、社会に害を与えるものは駆逐される。社会に影響力を与えれば与えるほど、多くの人が役立てば役立つほど有能で、社会に影響を与えられる度合いが低いほど無能なのである。学生たちが何も言われないのは、将来役に立つ人間を育てている最中だからだ。ただ、学校という狭いコミュニティーのなかで自分たちが役割を与えられ(もしくは自ら作り出し)、社会に役立つ意味を経験させられる。お笑い担当、話を聞いてくれる担当、高嶺の花担当、自分と一緒にいてくれる担当などだ。それを担えなかった人間はグループから外され、残酷にも「ぼっち」となる。

 

友人関係でもそうだ。好きな人や好かれる人というのは、上記の役割分担のようにそれぞれ「良いところ(=役に立つ)」がある。笑わしてくれる。楽しませてくれる。自分にない考えを教えてくれる。一緒にいてくれる。話相手になってくれる。相談相手になってくれる。居心地よくさせてくれる…などだ。一方で嫌いな人や好かれない人というのは、「嫌いなところ(=役に立たない・被害がある)」があるからだ。一緒にいても面白くない。楽しくない。気持ち悪い。一緒にいることで実害がある…など。

 

当たり前のことを言っているに過ぎないが、私たちは生まれた瞬間から「社会のために役立つ」ことを社会と契約して生きているのだ。物心つく小学生のころから、身に覚えのない社会契約に沿ったシステムに放り込まれる。そして、社会に役立つスキルを伸ばすことを成長と呼び、教え込まれる。最終的に仕事につけない=社会に役立たない人間は生きていけない。私たちは社会の歯車として生かされ、社会に役立たずに生きていくことは不可能なのである。

 

多くの人から認められる存在は幸福で、認められない存在は不幸である。子供のころから良い子だと多くの人から一目置かれ、すくすくと成長する子もいれば、誰にも認められずに非行を繰り返す少年もいる。容姿端麗に生まれ、その場にいるだけで多くの人間から価値があると評価される子もいれば、容姿に恵まれず、その場にいるだけで「不快」とされいじめられる子もいる。自分自身の自然な感情である「好み」は社会通念に沿ったものでなければ許されない。身に覚えのない社会と交わされる契約は、実に不平等で、理不尽で、残酷なものだ。

 

社会に役立つことが出来なくなったとき、私たちは自信を失い、孤独や疎外感を感じ、社会から非難され、そして絶望する。それでも安楽死は許されず、自死するならば苦しみながら死ぬことを選ばざるをえない。近代的な考えならば、社会契約を不履行せざるをえない場合の人道的な措置として、「安楽死制度」は認められてしかるべきだ。

 

ただ、その不平等な社会のなかで、自分自身の価値を模索し、考え、答えを見つけて貫き通すことに大きな価値があると私は考える。これを「自分を持つ」という。世の中の社会に役立つことだけ(=自分以外の者が判断すること)が価値とされるなかで、唯一自分自身で価値を見出すことができる崇高な価値だ。自分自身で自分の価値を見つけ出すことができれば、社会契約と関係なく生きる希望が生まれる。その姿勢は結局のところ社会に役立たない人間の役に立つことになるのだが。

 

人工知能(AI)社会となり、もし仕事につく人間が少なくなったとき、「自分を持つ」価値観をとても重要視される日がくる可能性がある。私が生きる意味は、いま現在「社会のために役立つ」よりも「自分を持つ」ことに重きが置かれている不届き者である。


  

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