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自説|まともな人間とはなにか

これまでの空虚な人生を振り返ると、大きく分けて2つの段階に区分することができる。1段階目は物心ついた幼少期から20歳にかけて、他人からの評価を得ることに自らの存在価値を見出していた時期。2段階目は20歳から現在まで、「自分らしさ」を追求している時期である。

 

承認欲求を求め過ぎた結果、私自身は何者でもなくなってしまったのだ。よくある話である。そして、そんな空っぽな人生に終止符を打つべく、「自分らしさ」を求めるようになったのが現在だ。

 

その先はおそらく「自由」を求め続けたがために孤独になったことで幸せを得ることができず、さらに新たな価値観を模索することになると想像できる。承認欲求を求めても、自分らしさにこだわっても幸せになれないと感じた時、その先に何が待っているか、自分はどうやってその課題をクリアしていくのか。大きな犠牲を払いつつも、たどり着くさきに何が待っているのか、私はとても興味がある。もしそこで課題をクリア出来たならば、人間が幸せになるための本質を見つけられるに違いない。

 

幸せになる上で社会との関わり方は切っても切れない腐れ縁だ。友人、家族、他人たちという社会は「自分らしさ」を認めようとしない。承認欲求を求め過ぎた幼少期〜青少年期にかけて、多くの人が私のことを認めてくれた。しかし、その認めてくれた部分というのは「自分の素直な感情」の部分ではなく、単に社会に迎合する、社会の理想に沿う部分、もしくはそう演じてる部分だけだった。

 

つまり自分自身の「素直な感情」をいかに抑え切るかで、この世の誰もが認めてくれる「まともな人間」が出来上がるのである。すなわち他者は私自身のなかにある社会の理想に合致する部分を見つけては、褒め言葉として与えて喜ばせることで、さらに追求させ、陰口や批判をすることでまとも以外の部分にはみ出ないようブロックするのだ。こうして我々は型から身動きがとれないなかで幸福を追求するしかなくなるのである。

 

そこで問題なのが素直な感情の部分だ。素直な感情が社会の理想=まともさと合致していれば問題ないが、合致していない場合は不幸にしかならない。合致していない場合は、他人や自分に嘘をつき続けて生活することになり、オープンにした場合は大きな犠牲を伴うことになる。そしてその演技力や忍耐力が高い人間のことを他者は絶賛するのである。

 

社会は「あいつはまともではない」と簡単に人間を切り捨てることを厭わないが、私はそこに大きな違和感を感じる。いつも言うように遺伝、教育環境、家庭環境、経験などが人間を作るのに大きな影響を与える。なぜ我々人間はひとりひとり違うのかといえば、それぞれが自分一人ではどうすることもできない特殊な状況下で生きているからだ。自分一人でどうにかなるならば、この世の中みんなが同じ幸せを享受している。

 

この説明が分かりにくいというならば、いくつかの事例を紹介しよう。分かりやすくイケメンに産まれ、昔から女性に不自由することなく産まれてきた男と、不細工に産まれたがために、生理的に受け付けないと女性に恵まれない人生を生きてきた二人の男がいる。たまたま二人同時に彼女が出来た時、彼らの彼女に対する対応はまるで違うものになる。例えばイケメンの彼氏は女性に不自由していないために、良い意味でも悪い意味でも余裕を持つため、その彼女にこだわらなくて良い。合わなければ簡単に別れることもできるし、その点彼女を縛り付けることもない。

 

しかし、女性に恵まれない状況を過ごしてきた男にとってはようやく出来た初めての彼女だ。彼女がいなくなれば、彼は次の女性を探すのが困難なことは目に見えている。こちらも良い意味でも悪い意味でも、彼女を優先することになる。彼女を第一に考えるが、下手をすれば彼女を束縛することにもなる。たとえイケメンであっても、ほかの誰にも変えられない最高の彼女をゲットすればイケメンでも同じ道をたどるかもしれないが。

 

この二人の彼女に対する行動は、自分自身でコントロールできる代物なのだろうか。社会で言う「まともさ」は、縛り付けることのない前者だろう。しかし、彼らが産まれてきた遺伝要素、そして自信が持てるか持てないかの過去の経験、環境が彼らをコントロールしていると言えるのではないか。ある意味で、まともと言える人間も、まともじゃないとされる人間も両者とも「自然な人間としての動き」をしているに過ぎない。まともじゃないと言われる行為であっても、何かしら原因は必ずある。それを突き止めようともせずに「まとも」か「まともじゃない」かを判断することは思考停止という言葉そのものだ。

 

しかしこの社会は残酷にも、イケメンや女性に恵まれた人生を歩む”人間性”だけを「まとも」と呼び、そうでなかった者にも同じように高飛車に押し付けるのだ。イケメンと不細工だけでなく、家族愛に恵まれなかった者、友人に恵まれなかった者、ひきこもりになった者、全てにおいて何か自然の流れで「他人からみて理解できない行動」に至っている。そう考えると、「まとも」という言葉ほど安直な言葉はない。その言葉を安易に使うことは、社会の型にハマり、思考停止に陥っている証拠ではないか。

 

社会のまともと言われる人間たちは、まともではない人間を非難したり、罰したりするのではなく、彼らがどうして「まともじゃない行動」をすることになったのか、どうすればそれを回避できたのかを考えることだ。ただ非難して罰するだけで、まともな人間たちになるならば、もうすでにそんな社会が実現している。国民も、週刊誌も、マスメディアも一体となって正義感を気取ってまともでない人間に対して社会的制裁を下そうとするが、何一つ解決になっていない。そういった動きを見ると「国民的いじめ」にしかみえない。

 

なぜこんなにも閉塞感のある社会なのか。それは自分自身の素直な感情を閉じ込め、演技をしたり、自分や他人を偽り続けながら「まとも人間」になり続けなければならないからだ。そして、その乖離を誰かに相談することがしにくい環境なのである。せめて、誰にも相談しにくい悩みなどを気軽に相談できる窓口が存在すれば、少しはマシになるかもしれないが、日本の文化としてそれは実現しにくい。

 

「幸せの実現」は、相当困難な課題なのだろうか。


  

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