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2019年01月22日(水)
自説|善人も悪人もこの世に存在しない 悪人は不幸で不運な人間なだけである

近年、厳罰化の流れが世界的に主流となっている。我が国日本でも厳罰化を求める声はあちこちから聞こえる。犯罪被害者の立場に立てば、当然の主張とも思えるが、厳罰化を主張する多くの人間が犯罪者側の立場に立って考えたことがあるとは思えない。何故なら犯罪者の立場でものごとを考えれば、周囲の人間から「犯罪者予備軍」として警戒され、日常生活に支障が出るからである。だから、誰もが犯罪者の立場に立とうとせず、一方的な立場で理論を構築して厳罰化という流れにたどりつくのである。そんな一方的立場で結論づけられたことが、私には正しいとは思えない。

 

世の中の人間が主張することは、犯罪者は暴力的であり、常軌を逸していて、おかしな人間であるということだ。「気持ち悪い」、「一生牢屋から出すな」、「世の中からただちに抹殺するべきだ」という。そして犯罪抑止の観点と、応報刑論という考え方から刑罰が下されるのである。

 

しかし、本当に犯罪者は「おかしな人間」なのだろうか。これまでの歴史のなかで犯罪を犯した者は数知れず、さらに犯罪も地域によって犯罪になることもあれば、合法であることもある。たまたまその社会のなかで考え方や行動が合わない人間も、犯罪者として扱われてしまう。さらに、同じ人を殺すという行為であっても、軍事的や社会的な悪を抹殺するならば途端に「合法」となる。その社会の利益になる行為であれば、どんな行為も合法になるのだ。犯罪と言っても、実態はいい加減なものであり、実に不平等なものである。

 

さて、犯罪を犯す人間と犯罪を犯さない人間の違いはなんだろうか。単に犯罪を犯す人が悪魔で、犯罪を犯さない人間が天使というだけだろうか。そんな単純な話とは思えない。過去、私は「良い人」と言われ、信じられ、友人関係を構築していた。しかし、今では友達も減り、良い人と言われることはなくなってしまった。むしろ、多くの人から非難される存在になっている。なぜそうなったのか。そこを紐解けば答えも見えてくるはずである。

 

これらの違いを簡単に言えば現状が「恵まれているか(幸福か)」「恵まれていない(幸福でないか)」である。赤ちゃんの時代から犯罪者が犯罪者だったわけではない。今に至るまでには、家庭環境、受けてきた教育、教育者たち(親も含めて自分を教育してくれる人)と出会う運、自分自身を認めてくれる人間がいるかいないか(恋人、友人、家族など)、遺伝、裏切られた人間の数、容姿など様々な状況下で作られている。それぞれ違った人間形成をされているにも関わらず、同質化を求める社会というのは、実に非情であり、人道的とは思えない。

 

もしあなたが犯罪者と同じ道で育てられ、同じ状況下に置かれた場合に同じ心理、行動を取らないという保証はどこにあるのか。被害者が憎しみを抱くのは当然にしても、第三者がただ「気持ち悪い」、「一生牢から出すな」と高飛車に主張することは、恵まれた環境で育ち、恵まれた環境にいる人間が、不運な人生を歩み、不幸な状況下に陥った人間に対して蔑んでいる醜い状況にしか見えない。反対に犯罪者が別の人間と同じ道、同じ環境で育ち、同じ現状になっていたら「犯罪」を犯しただろうか。

 

私自身がかつて「良い人」と言われ、多くの人から信頼を得ていた時代は、多くの人間から認められ、不幸など感じたことがなかったからだ。多くの人から認められ、不幸を感じなかった以上、彼らの信頼や自分の人生を狂わすことなど全く考えるはずもない。しかし、もしも遺伝的な要因や、なんらかの要因で理不尽にも誰からも認められずに非人道的な不当な扱いを受けた時、幸せになれないと悟った時、どんな考え方になるか、行動を取るかはわからない。

 

以前、フジテレビの「アンビリバボー」でアメリカ・ジェニファー・トンプソン氏強姦事件が紹介された。逮捕された黒人の青年ロナルド・コットンは冤罪で不当に逮捕され、約10年間服役した青年だった。服役中に他の事件でたまたま同じ刑務所に服役していた事件の真犯人を見つけ殺害しようと決意するに至った。しかし、そんな時に父からの電話で殺害することをやめたのである。その後、DNA鑑定の結果冤罪が認められ、裁判で自分自身を誤解に基づいて強姦犯だと主張した被害者のジェニファー・トンプソンと和解し、現在は家族ぐるみの良好な関係にいるという。

 

心の広い善人である彼も、理不尽なこと、不幸なことがおこれば「殺意」を抱くのだ。意地悪な言い方をすれば、冤罪の疑いが晴れないまま刑務所を脱走し、ジェニファー・トンプソンと話していれば、真犯人と同じように許せないという感情に支配されたかもしれない。冤罪が認められたことで、相手を許せる状況下=善人になれたのだ。

 

世間で善人と言われる人間は恵まれた環境で育ち、または恵まれた状況にいる証拠である。おかしな人間や、悪人たちは不運や不幸な状況下に置かれてしまった人たちなのである。犯罪者を生み出さないためには、なるべく多くの人間が幸福になる社会を実現しなければならず、不幸な社会や厳しすぎる社会になれば、閉塞感や自暴自棄に発展して最悪の場合自分を殺害するか、犯罪を犯すかという選択になるのである。理解できない行動に見えても、どんな行動にも理由がある。私たちはその認識の欠如が甚だしい。

 

厳罰化によって生み出すものは何もない。現代社会のなかで最も必要なのは、ロナルド・コットンの父のようなどんな相談や悩みを打ち明けたり、自分のやっていることを冷静に判断してくれる存在であり、そしてなるべく多くの人間を幸福に導くための社会の努力である。ただ幸運にも恵まれた環境にいるだけの人間たち=善人(被害者以外)が、そうでない人間=悪人を切り捨てる姿は想像力の欠如そのものなのである。イケメンがブサイクに対して「生きてる価値はない」と言っているようなものなのである。


  

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