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自説|人生に絶望した人間は、ただちに普遍的な価値観を捨てよ

11月も中旬になり、寒さが一層増してきた。偶然かはわからないが、寒さが増すにつれて「マイナス思考」に陥っている者たちと話す機会が増えた。季節性情動障害(冬季うつ病)と言われる脳機能障害が存在するが、関連があるのかどうか私にはわからない。

 

しかし、多くの若者が自分を卑下する言葉を並べ、時には自殺を示唆する場面に遭遇すると、いかに人生をやり直すことが困難かを噛みしめる。道を外れた人間たちが待っている先には崩落した鉄橋があるだけだ。鉄橋を直そうにも、レールを歩んできた人間たちは技術もやり方もわからない。

 

落ちこぼれた人間の行動は様々だ。崖を決死の思いで降りて茨の道に進む者(非正規雇用などでなんとか生計を建てようとする)、どうすれば良いのかわからず立ち往生する者(ニートや引きこもり)、人生に絶望し鉄橋から飛び降りる者(自殺)、鉄橋を独自の方法で修理しようとする者(起業や大学進学を目指す、正規雇用求人を受けるなど)等。しかし、「人生をやり直す方法」を誰からも学んだこともなく、周囲にも的確なアドバイスができる者や支援もない。落ちこぼれたちが元のレールの上を歩むのは相当困難だ。多くは絶望を感じるだろう。

 

「普通の人間になりたい」「普通の人生を送りたい」

 

私が聞いた彼らの悲痛の叫びを誰も聞く耳を持とうとしない。「自己責任」、「今まで努力せず逃げてばっかりいたから」、「因果応報」と一蹴される。私のように厚顔無恥にも「社会批判」をしようものなら、「社会のせいにするな。現実が見えていない」などと言われる。いよいよ落ちこぼれは何も言えず、ただ一方的に責められ、絶望を感じるしかないのである。

 

落ちこぼれの同志たちよ、仕方ないのだ。これが現実なのである。受け止めよう。ただ、私は君たちの言う「普通の人間になりたい」という願望は、同意しかねる。そして、些かもったいないように思う。

 

普通の人間ではないということは、チャンスなのである。特殊の人生を生きていることはたとえ落ちこぼれであっても大きな意味がある。落ちこぼれしか分からない世界に身を投じているならば、他の人間たちが味わえない世界観、価値観を新たに学ぶことになる。それは自分自身を成長させてくれる機会でもあるのだ。普通の人生を歩む人間たちが、「普通」であることに固執し続けるなか、そこにとらわれずに新たな発想を持つことができる。もはや普通の人間ではないのだから、何も悲観することばかりでもない。

 

私から言わせれば「社会のせいにするな」と一刀両断できる人間こそ、現実が見えていない。「落ちこぼれた人間」が形成されたのは、本人だけの力では決してない。受けてきた教育、家庭環境、人との巡り合わせ、容姿などの遺伝的なもの、運など様々な要素が落ちこぼれた人間を作り出した。自分一人で出来ることなんてどう考えても限られている。それを全て無視して「社会のせいにするな」とはよく言えたものである。

 

もちろんそんな理不尽な社会のなかでも、腐らず前を向くのは個人の問題だ。そこで私は、私の同志たちに腐らず前を向くためのひとつの提案をしたい。それは、「普遍的な価値観を捨てること」だ。

 

なぜ私たち落ちこぼれはこんなにも苦しみ、絶望的になっているのか。それは社会が望む理想の価値基準に自分たちが達していないからである。もっと言えば自らの価値感を考えたことがなく、大衆迎合のように社会の価値観にただ自分の価値観を合わせているだけなのだ。だから、自分自身が劣っている人間にしか見えず、苦しみ、もがいている。

 

しかし、先述したように人間ひとりひとり、受けてきた教育、家庭環境、人との巡り合わせ、遺伝、運など不平等な状況下で育っている。その背景があるのだから、社会が理想とする人間になれなくても何ら不思議ではない。そこまで自分を責める必要がどこにあるのだろうか。

 

肝心なのは、社会の理想に合わせるのではなく、自分の理想を今一度考え、創造することにある。現在の状況を把握し、受け入れ、社会の理想ではなく、少しでも前進・改善していけばそれで良いという自分の理想を作り出すことだ。引きこもりなら、いきなり就職を決めようとするのではなく、まず外出したことで自分を認めてあげること。不登校になっているならば、家で勉強してみること・フリースクールなど新しい居場所を探してみようとすること・インターネット授業を受けて見ることなど、それだけでいい。その積み重ねをすればいいという意識を持てば良い。

 

私たちは社会の理想に自分の理想を合わせているだけで、本当の自分を無視し、適切な理想を考えたことすらない。よく、プライドを捨てればいいと言うが、どちらかというと自分の価値観を作り出し、自分の価値観で生きると言い換えていいだろう。

 

これは普通の人間が普通の人間であることに固執し続けていては、到底気づくことができないことである。普通の人間が普通の人間でない者を見下し、嘲笑する中で、着実に一歩でも進むことに価値観を置いている人間のほうが、はるかに深い考えを持つことができ、人間としても前進していくことだろう。

 

普通の人間でいることは確かに「楽」だが、「本当にそれが幸せなのか」と考えると決してそうではない。落ちこぼれになることは、そこに気づくことができるチャンスなのである。死刑判決を受けた人間以外は、誰もが生きる権利を持っているのが日本社会だ。落ちこぼれて、自殺してしまうのはもったいない。

 

誰かに迷惑をかけても良い。それが生きるために必要ならば。いつか誰かに迷惑をかけられて、それを受け入れれば良いのだから。死ぬよりは、自分の価値観を作り出そうじゃないか。


  

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