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自説|なぜ理解できない人間が現れるのか

 人と接していて、たまに理解できない人間と出会うことがある。当然衝突したり、相手を非難するわけだが、なぜ彼らが「常識的」でない人間になったのか。なぜその思考になっているのか。なぜその行動を取ったのか。怒りや理不尽さのなかで、そこまで考えが及ぶ人間は少ない。

 

 私自身の経験でもあるが、自分自身に被害が及ぶと「自分ファースト」な思考に陥る。ケンカはお互いに被害があるので、お互いが自分ファーストになり、どうしても相手の気持ちや考えを考えようとしなくなってしまう。自分ファースト同士が対峙すれば、当然ぶつかり合うし、自分のことが正しいとしか思えなくなってしまう。

 

 しかし、一見理解できない事柄であっても、相手のことを知ればその行動に及んだ理由がわかる。どんなことでも何らかの原因があって、結果がうまれるのだ。単に人間そのものを否定し、本人が悪いと言ってしまえば楽なものだが、それは「思考停止」なのである。

 

 恐らくひとりの人間そのものを研究していけば、その人間がなぜそこにこだわるのか、なぜそんな考えを持っているのか、なぜそんな行動を取ったのかが判明してくる。プライバシーや人権の観点からその解明をすることは非常に困難だが、「自分はそんな理解できない人間にはならない」と思っていても、それはその人物の境遇でないから言えるだけだ。ある意味、なんでもすぐに他人を批判や否定できる人間は幸運で、とても恵まれた人間である。

 

 理解できない部分というのは、人間の一面しか見えていないからだ。本人がその部分を隠している場合もあるし、私たちが理解しようとしない。きちんと一人の人間を見ようとしない。そういう側面が大きい。白黒をつけたがる社会では、その人物を「誤解していた」こと、「知っていれば理解できなくはない」ということだらけのように感じる。

 

 人の人生は自分の「努力」によって変えられる部分もあれば、どうしようもない「運」もある。「遺伝的」なものもある。いま順風満帆な人生を謳歌していたとしても、うまくいってない人生を送っていたとしても、人から喜ばれる行動をし続けていても、他人から理解されない行動をしていても、その結果にいたるまでには様々な要素が絡み合って結果が生み出されているのだ。

 

 そうだとすると、良い人間も、悪い人間も実は紙一重なのではないか。本人がどうすることもできない環境や遺伝次第では、まったく別の人生になったかもしれない。違う結果になったかもしれない。もちろん本人の努力不足もあることは間違いないが、すべて本人の努力でどうにかなるというのは乱暴な意見に思う。

 

 私がこれまでに「人格否定の否定」を繰り返してきているのは、上述のような考えに基づいているからだ。私が人格否定をしはじめたときは、感情的になり自分がコントロール出来ていない状態と考えてもらってかまわない。

 

 ただ、「悪」の部分を全て「邪悪な人間」として片付けられてしまいやすい現代だからこそ言いたい。その人物が作り上げられているのは、様々な要素が絡み合っていることを覚えておくべきだと。真実には、自分たちがただ見えてない、考えられない部分のほうが多いのだ。その見えてない部分が省かれているので、私たちはその人間を理解できないのである。


  

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