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自説|主張を変節しないことこそ無責任だ

生きている間に「主張」をする機会は何度も訪れる。現代ではインターネットが普及し、過去にどんなことを主張していたかが分かりやすい時代になった。1つ1つの言葉を慎重に発しなければ「昔、彼は〜〜と主張していた!主張を捻じ曲げるなど無責任な人間だ」と指摘される。人間は「首尾一貫」する態度を他人に期待し、そう言った人間を信頼するがそれが正しいとは限らない。

 

そもそも主張とは、自らが正しいと考えた意見を述べることだ。ここで注意すべきなのは、その時点で正しいと考えていることである点、正しいと考えているだけで、正しいかどうかは神様にしか分からないという点である。

 

以前にも当コラムである自説(事象はすべて「つな引き」によって引き起こされる)で述べたが、「正しさ」は時代のタイミングに大きく左右される。「昔は正しくても、今は正しくない」「今は正しくても、昔は正しくない」ことがたくさん存在する。その時代の環境や社会情勢が正しさを変えるのだ。特に時代の移り変わりが早い現代に置いて、「首尾一貫」する姿勢が反対に致命傷になることも大いにあり得る。

 

統計などの数字を根拠に「主張」をしたとしても、その数字は100%というわけではない。7割から8割という数字で「人間はこうなるのです」と、傾向を主張するが、2割から3割程度のイレギュラーな存在を忘れてはならない。一定数のイレギュラーな人間は必ず出てくるのだ。100人中100人という数字が出てくるほうが稀であり、「100%の正しい」はこの世に存在しないと考えていたほうがよい。

 

時代は移り変わり、100%の正しさは存在し得ないとなると、自然と「変節」になるのは已むを得ない。いや、むしろ変節すべきだ。このような状況下で、首尾一貫できるほうが少ないのである。自分が間違っていたとしても、それを認めず、主張し続ける方が私ははるかに「無責任」だと考える。それは現代人がよく使う「思考停止」そのものに他ならない。

 

「君子は豹変す」。人間は神様ではないのだから、間違いを犯し、考え、改めることを繰り返さなければ「正しさ」に近づくことができない。主張を変えたことを非難してくる人間がいるならば、「私を神様だと勘違いしているのか。考えを改めることを受容できない社会や人間は成長できない」と反論しなければならない。

 

何度でもいう。私たちは神様ではない。これまでの「人間社会が行ってきたたくさんの過ち」を受け、変化したことにより現代社会が成り立っている。過ちがなければ、社会は変わることすら出来ないのだ。過ちを認め、見直し、さらじ時代の変化を適切に把握し対応する。ああ、「変節」になるのは「アタリマエ」じゃないか。


  

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