好きなことを好きなだけ表現する

個人ニュース、コラム、写真などコンテンツ豊富なオピニオンサイト

自説|人から好かれようとするべからず

コーネル大学ステファン・セッチ教授の研究で「容姿端麗な被告人」と「容姿端麗でない被告人」で模擬裁判を行った。すると、容姿端麗ではない人のほうが22%も高く有罪判決を受け、懲役の長さも平均22ヶ月長いという結果が出た。また、平均年収、学業における評価についても容姿端麗な人ほど高いという別の研究結果も報じられている。「好き嫌い」がはっきりと分かれてしまう容姿で、理不尽な結果が示されてしまった。

 

芸能界でも、息子が逮捕されたみのもんた氏と高畑裕子氏では世間の反応に大きな違いがあった。セクハラ騒動の渦中だったみのもんた氏は猛バッシングにあい、出演自粛に追い込まれた。一方バラエティ番組にもドラマにも数多く出演していた高畑淳子氏には、援護する声が多く聞かれた。同じ「親の責任問題」を問うのに、「好き」「嫌い」という感情が人間の判断に大きな影響を及ぼすことを表した好例だ。自説でも書いたが「社会的制裁」と声高らかに言う人間が増えるなか、「公平」な判断は一般人には不可能なのである。(個人的には自分の意志が介在することがなく、家族であっても別の人間をコントロールするなど不可能に近いことに、責任を取らせようとすることは理不尽ほかならないと思っている。教育について問いつめられるならば「教育に完璧さ」などどのように決めるのか、出来るとしてもそれぞれの家庭環境で実現可能なのか検証もしないのに責任を問う人間こそ無責任だ)

 

人から好かれなければ「悲惨な目」に合う確率は高まる。嫌われ者だと「仲間はずれ」にされたとしても「しょうがない」と言われ、ありもせぬ噂を広げられ、ひとたびバッシングされれば勢いが増しとまることがない。このように好かれている人間のほうが、生活していく上で様々なメリットを享受できる。

 

しかし、「人から好かれる」のは大変だ。良くも悪くも本来の自分を制御しなければならない。まさに人から好かれる仕事であるアイドルを見ているとよく分かる。キャラクターを作り、終始一貫して演じきらなければならない。ごく自然な感情に基いて、演じていたキャラクターと反した行動をすれば途端に社会的に制裁が下される。多くの人に好かれれば好かれるほど、また多くの人に好かれようとするほど「自由」や自分の「意思」はなくなっていくのだ。

 

私は少年期に「多くの人から好かれる努力」をし、青年期である現在は「多くの人から嫌われるのを恐れないこと」を目標に、両極端な人生を歩んできた。極端な容姿劣化に伴う「方針転換」と言ってもいいかもしれないが、この極端な人生を歩んできたことには大きな意味があると考えている。

 

私は個人が持つ自然にわき上がる感情を排除し演じきらなければ、途端に敵に囲まれてしまうことに辟易してしまった。そして、「自分の意志」や「考え」を持たずに、生きて行く「自らの薄っぺらさ」にも気付いてしまった。決定的な出来事としては、極端な容姿劣化によって、人としての扱いがまるで違うという理不尽なことを感覚として味わった。それが個人的に大きなショックだったのだ。人から好かれる可能性が「容姿」という入り口から大きく減っていくなか、「好かれる努力」をするだけでは到底生きていけない。

 

好き嫌いは相手の主観なのだから、そもそもこちらではどうすることもできない。しかも大凡「公平ではない人物の評価基準」のなかで、自分を偽ったなかで好かれたとしてもそこに価値はない。「生理的に嫌われない容姿に産んでくれてありがとう」と親に感謝し、「自らの演技」によって好かれても好かれてるという感覚がなく、空虚な感情が沸くだけだ。私個人としては「好かれようとして好かれた人生」よりも「嫌われることを恐れない」ことのほうが、人に流されず、主体的になり、物事を様々な角度から見やすくなり、結果として好いてくれる人が現れるかもしれない。そんな人生のほうがよっぽど価値があるのではないかと判断した。

 

もちろん嫌われることにも大きなデメリットがあるのも知っている。人から好かれて生きていったほうが生きやすい人もおり、結局は「生きる術」としてどちらを取るかの問題だ。私が中年期や壮年期になった時、試行錯誤した人生の結果をお伝えできれば幸いである。


  

FavoriteLoadingこの記事をクリップリストに追加する 
SHIGEFIKA会員ログイン




パスワードを忘れた
新規登録
SHIGEFIKA会員とは
週間人気記事ランキング
最新記事
更新情報/Twitter
常論新聞
編集部からのお知らせ