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自説|常識は、いつも人間を迫害する

「常識」は我々日本人が人と接するコミュニケーションのなかで、最も重要とするものだ。親や学校で教えられ、常識があるか、否かで「人間力」を計るひとつの物差しにすらなっている。

 

その中で「常識がない」と判断された人間は“人間として失格”となる。そして、自称「常識人」とする者だけのコミュニティーが力を持ち、大きくなっていくのである。

 

「常識は間違っていない」と疑念も持たずに教え込まれてきた私たちは、常識がない人間をなんの躊躇もすることなく迫害していくことができる。私たちはなんと恐ろしいことを教え込まれたのだろう。

 

更に質が悪いのは自分が常識人と見られたいがために、アピールするために、常識がない人間を露骨に非難しようとする。バカにする。気持ち悪がる。話を掘り下げて聞いてみると大して深い考えはない。そこにあるのは“醜い自己顕示欲”だけなのである。

 

素直に言うことを聞く人間が“良い子”だと評価される教育システムの結果、何の疑念も持たずに人を迫害する人間が増えていった。一方で疑念を持ち、抵抗しようとする人間は迫害を受けるか、強制的に考えを改めさせられた。そうでなければ生きて行くのが困難だからである。

 

しかし、多数派が占める世界を選び続けようとする人間は精神的に弱く、反対に少数派となっても自身の信念を貫こうとする者は精神的に強い。多数派の意見が正しい意見とする者は自分で判断することが出来ないが、多数派に関係なく自身の意見を貫けるものは主体性が持てる。常識の範囲内で収まってしまう多数派に属するものは新しいものを産み出しにくく、常識や人からの抑圧を受けない少数派はイノベーションを産み出しやすい。

 

もちろん少数派が全て正しいと言っているわけではない。だが、世間で考えている以上に少数派はメリットもある。従って我々は多数派が考える常識という人間の物差しを一度置かなければならないのだ。改めて正しいか、間違っているかを自らで考えて、正しいのか、間違っているのかを決めるべきだ。そこに常識は関係ない。あるのは自らの意見のみ。結果的に多数派に属していたか、少数派に属していたかなだけである。

 

人を批判する、迫害するならば、「常識がないから」などという一種の思考停止状態が根拠とするべきではない。屁理屈と言われようとも、何故ダメなのかをもっと深く追求すべきである。それが本当に理解するということであり、人間としての優しさにも繋がっていくのだ。


  

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