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自説|頭が良い人の定義を考える

「あいつはバカだ」、「頭悪すぎ」と罵られる人間もいれば、「頭が切れるな」、「話し方を見ていても頭が良いって分かる」と頭脳明晰さを称えられる人間もいる。「頭が良い」とは言っても、その定義は何かと問われれば様々な指標があるように思う。

 

頭が良いとは一体何なのか。自分なりに考えていきたい。そもそもこの様な愚見を頭のなかに抱いたのは政治討論番組を見たことによる。番組を見ていると出演しているのは総じて頭が良いと言われる「高学歴」な人間ばかりだ。東京大学、京都大学、早稲田大学、慶應義塾大学など私のような低学歴層からすれば錚々たる顔ぶれだ。つまり、一般的に言う“学力”については全員が頭の良い人間たちで構成されているのだ。

 

ところが彼らの議論は二分される。賛成派と反対派に分かれ激論を繰り広げている。「それがどうした、当たり前だろ」と思うかもしれないが、私たち人間は常に1つの正解を求めてこうやって議論や判断を下している。その際に重大な判断を下す立場にいるのが「頭の良い」と言われている高学歴者が多い。私のような低学歴層は打開する術や考えが思いつかないので、判断を高学歴者に委ねるしかない。それなのに俗に頭が良いといわれる高学歴者同士が全く違う意見を言っている。実に面白いではないか。

 

どうやら常に正解を出せる者が「頭が良い者」ではないようだ。当たり前である、常に正解が出せるなら神のように崇められているだろう。さらに番組を見続けていると奇妙な点が浮かんできた。1人必ず異常に叩かれる意見を述べるのだ。番組終了後その人物には視聴者から多数の批判を受けている。まさに炎上状態だ。私も一笑に付していたのだが、この光景議論する番組では必ずと言って良いほど見かけるのである。

 

極端な異論に対して冒頭のような「あいつはバカだ」、「頭悪すぎ」と多数の人間と批判することで「快感」に似たようなものを得ている。それは「自分はまともだ」とも言わんばかりの横暴なものなのだが、異端な意見を述べる人間が出る回は常々面白いと感じてしまうのである。正論を述べ、相手を異端な意見を述べる者をひれ伏す。多くの人がそれを快感に感じてしまっている。ああ、やはり政治討論番組が「バラエティー番組」に括られているのは、そういうエンターテイメントなのかと。異端なことを言う人間を1人キャスティングしているのは演出なのだろうなと感じてしまうのだ。なんとなく“いじめ”の光景を目のあたりにしている気もする。そういえば大ヒットした半沢直樹が人気の理由もそういうところにあるのかもしれない。

 

閑話休題。ところが、この異端な意見を言って「超」がつくほどバカにされている人間も、高学歴な人間だ。エンターテイメントとしてわざと異端な意見を述べているのかもしれないが、実際には同じ意見を本気で述べる人間も社会には存在している。それも賛同しているのは名だたる大学教授もいるではないか。世間では「頭悪い」「バカだ」なんて言われているが、頭脳明晰な人間も多く賛成している。どちらの意見にも頭良いとされる人間が賛同しているのだ。頭が良いか、悪いかというのは「思想」や「考え」そのものは別に関係ないのだなと痛感する。

 

では「頭が良い」と言われている人と私のような「頭が悪い」と言われている人間の違いは何かを考えてみる。たくさんの人間と接した経験も含めひとつだけ定義付けできるとするならば、頭のいい人間は皆「自分の意見」をきちんと持っていることだった。先ほどのバカにされていた人間も、正否は置いといて自分で考えた意見を自分なりに意見している。それに比べ私のような「頭が悪い人間」はテレビ番組やネットの掲示板などで他人の意見や空気を気にして自分の意見として迎合してしまう。自分で考えたわけではなく、周りの人間の多数派に合わせているだけなのである。俗にいう空気に沿うだけの人間だ。もちろん参考にして自分なりの意見を構築するなら問題ない。

 

自分の意見を述べるには、自分なりに考察し、周囲を納得させなければならない。それを考える過程で「問題点を見いだす」、「賛成か反対か」、「問題の解決策」、「解決策への反論」、「それでも尚自身の意見が良いとするメリット」などをセットにして考えることになる。それらを考えられるか、きちんと意見表明出来るかが私の考える頭のいい人とそうでない人の違いだ。小論文試験が多くの企業・大学で採用されている理由は、恐らくそう言った理由からではないだろうか。

 

議論をしていて「バカ」と感情を吐露するしか出来ない者や議論とは直接関係ない相手の「人間性」を批判しにくる人間は、論理的に反論出来ないか、問題点をすり替えようとしているか、はたまた私のような稚拙な人間であるかのいずれかだ。

 

頭が良いとされる学歴の高い人間でも、毎回テーマで賛成・反対に分かれ、異端で叩かれる意見を表明する者もいる。正しいか間違っているかは関係ない。自分で考えた意見を言えることそのことが「頭を使う」ことであり、意見を言うことを低学歴の私も意識付けなければならない。昔は意見を言える人間というのは非常に限られた者でしかなかった。ある意味、意見を主張することは「権力の象徴」であり「特権」だったのである。それが現代では自らの媒体を持ち、意見を誰しも表明出来る時代なのだ。その機会を逃してしまうのは、あまりにももったいないと感じるのは私だけだろうか。


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