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自説|見えない言論封殺に断固として立ち向かえ

いつからだ。“私はまともな人間”アピールする者を嫌悪するようになったのは。それが他者を苦しめている存在であることを知ったからか、自分がかつて同じ穴の狢だったからか、何かに影響されたからなのかは分からない。相変わらずネット社会では“うそっぱちな自由な言論”が行われており、批判とは名ばかりの個人攻撃で溢れている。現実社会はもはや自由な言論空間とは言い難い社会になっているのは誰もが実感するところではないか。
 
数々の言論空間を見てきたが、あまりにも一方向に進みすぎている。本来は1人1人様々な違う意見が見られてもいいはずなのに、書いている内容や主旨はだいたい一緒であり、異なる意見は糾弾されてしまう。異なる意見を持っていても、マジョリティに迎合する意見を書き込んだり、本来の意見を書き込まなくなったりした結果、一方向ばかりの言論空間になってしまった。さらにそれが進むと周りの多数派の意見だけを見て「それが正しい」と思い込むようになる。ただ空気に呑み込まれているだけということすら気付かない。
 
自分と異なる意見であろうと、社会的に問題となる意見であろうと、「自分で考えた意見を出すことの尊さ」を多くの人は考えたことはない。いかに自分が多くの人と同じまともな人間であることをアピールすることしか考えていない。だから少しでも人と違うと認めることができないし、認めないことで自分の“まともさ”を認識しようとしているのだ。言論の自由と謳いながらも、この国の社会では見えない言論封殺が行われている。
 
マジョリティの立場に立った時ほど人はもっと考えなければならない。本当に自分で考えた意見なのか。それとも多数に迎合した意見なのかを。考えるとは、異なる意見でも一定の理解をし、矛盾を抱えながらも1つの意見を出さねばならぬことを悩むことである。何も考えないことが、どれだけ罪深いことかを認識すべきだ。
 
そしてマジョリティ側だけではなく、マイノリティの立場となった人間も臆することなく意見を述べるべきだ。人間は残念ながら異なる意見を目にしなければ、その事柄について深く考えようとはしない。だからこそ、どんな意見でも自分で考えた意見を出すことは尊いのである。例え非難されようとも、糾弾されようとも、自ら考えた意見を述べなければならない。
 
この世でもっとも軽蔑すべき意見は、自分で考えたものではなく多数派に迎合した何も考えてない者たちの意見である。だからこそコラムサイトで好きな意見を好きなだけ発表する価値がある。タブーなんてものはクソくらえだ。このサイトは見えない言論封殺には断固として戦っていく。


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