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自説|好きなことを言うか、人気を取るかという究極の選択

自由に何を言ってもいいはずなのに、好きなことを言えない。その裏にあるのは、人との軋轢を避けたいという些末な願いがあるからだ。好きなことを思いっきり言うことと、全方位の人間から好かれることは水と油のような対極の関係だ。持論を展開すればするほど、意見が合わないと人が離れて行く。それが現実である。

 

反対に幅広く人に好かれるには、それなりの計算が必要だ。それは人と円滑な関係を結ぶ為の努力とも取れるし、悪く言えば計算高いとも取れる。その感覚は人によって差があるだろうが、人に好かれやすい反面苦労もある。自由も無く、主体性も奪われ、ストレスが溜まる一方になる。経験から言うと、良い人と認識されても、結局は都合の良い人間になってしまいやすい。

 

万人受けすること自体は意外と簡単で、相手が疲れないようなことを言えばいいだけである。当サイトで言えば自説などのコラムのような意見とは別なこと。衣田ニュースのような誰も攻撃しない平和的なものだったり、自虐すぎない程度のバランスの取れた自虐的な発言は人から受け入れられやすい。上司や格式のある人間には話しにくい感覚が一般的なら、反対に自分自身を下に見せることで、相手にとって話しやすい印象を与えることができる。

 

記者として私が唯一認められていた点は、写真や文章よりもその点だった。話しやすい印象や、助けてあげなくてはいけないという感覚を初対面の人に与えているようだった。県警本部に人事異動の資料を取りに行ったときのこと。はじめての県警本部への取材だったので、私の緊張感が伝わっていたのだろう。広報の方々は親切に対応していただき、資料を頂いたあとも電話で「無事に記事書けましたか。書けたら連絡してください」と心配して下さった。何度も電話を掛け、その度に丁寧に教えて頂くことができた。そのことを社長に伝えると「俺が若い時に警察に取材に行ったときは酷い対応だった記憶がある。お前にはそういうある意味能力がある。そのままでいけ」と言われた。

 

このように、場面によっては人に好かれやすい印象を与えることが有利に働くこともある。そういった努力が必要な場合も必ずあり、否定はしない。しかし、意見は意見、人格は人格と分けて考えることが出来ない人間がこの社会にごまんといる。誰がこんな社会にしたのかは分からないが、皆がうちに秘めている持論を人との軋轢を避けるために、将又自身のイメージダウンを避けるために言わなくなってしまった。そんな“タテマエ”だらけの社会で良いのか。持論を展開するのが悪なのではなく、お互いの主張を尊重しあえないのが悪なのではないのか。

 

本サイトを見た人間から「ネトウヨ臭がする」と言われたことがある。そう思う人間もいるだろうとは思っていたが、面と向かって言われるとものすごく違和感を感じた。私は確かに一般的にいう保守的な主張が多いのは事実だが、教育分野に関しては優秀さなど関係なくどんな人間でも平等に教育が受けられるべきだと主張しているし、経済政策では比較的大きな政府を容認するリベラル的な思想も持っている。教育機会の平等は本サイトコラムでも掲載しており、ただ憲法改正賛成、国軍保持賛成だからといって「ネトウヨ」と一括りにされるのは心外である。一面だけを見てレッテル貼りを行うのは短絡的と言わざるをえない。

 

こうした一面だけを見て「レッテル貼り」を行う人間が多いからこそ、人はそれを恐れて何も意見が言えないのだ。意見と人格を混同し、意見が違うものには個人攻撃をしたり、急によそよそしくなったり、そんな益体も無い世の中になってしまった。私はこの濁流から抜け出し、自らの意見を堂々と主張し、意見と人格を混同するような人間と付き合うのは今後一切やめたい。例え私が人から嫌われても、好きな意見を言える環境を整えて行きたい。そのひとつがこのサイトなのである。

 

誰からも好かれるような意見というのは、人に考えるきっかけを与えきれていない意見でもある。人が考えなければならないのは決まって賛否両論のある意見であり、誰かには支持され、誰かには否定される意見であればあるほど、価値が高い。そう考えた時、ますます自由に自分の意見を言いたくなってくる。もはや人から好かれることに価値を見いだせなくなった今日この頃なのである。


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