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自説|バックボーンを持つことの重要さ

このウェブサイトで122もの記事を執筆し、以前に運営していたブログを含め私がこれまで執筆してきた記事総数は711に及ぶ。削除した記事もあるので、実際の数はもっと多いのだが、現時点で確認できた執筆記事数はその程度だ。

 

これだけの記事をインターネット上にアップしていると、やはり誰かから批判されてしまうのである。今まで受けた批判の一例を挙げると「良くも悪くも若い子の文章。オドオドしたテキスト、その癖プライドだけは一丁前‥チカラの入れどころが逆なのでは。最低限の礼儀、絶対譲れないポリシー。それ以外は基本的に『読み手を意識した』文章を心掛けてほしい」というものだったり、「時間の無駄だった」、「ネトウヨ臭がする」などがある。

 

これまでにもしつこいほど書いてきたように、私は人の視線に敏感な人間だ。自分の発言した内容が他人から見て、どのように捉えられるかを常に考え、それに沿って発言や行動を選択してきた。だからこそ学生時代はケンカもすることなく、他人に攻撃的な姿勢は一切取らなかった。部活ではマスコットキャラクターなどと言われていたのは、自分の意見を押し殺し、他人に配慮することを優先していたからだ。

 

無論、自分の意見をコラム記事として掲載し続けていることで、他人にどのように見られているかも常に考えている。大多数の人間はこう考えているだろう。「何も成し遂げていない人間、しかもニートであるにも関わらず、偉そうな文章を書いて、批判して、はっきり言ってダサいし、かっこわるい」。そこまでなくとも、少なくとも「見る価値はなく、後から見た時に黒歴史になりそうだし、俺は真似したくない」。そう思われているに違いない。

 

従来の自分ならばどうしていたか。先ずそう言った批判を受ける前にブログを辞めるだろう。あとから振り返った時に黒歴史になりそうだし、実際に書いたあとで怖さを感じることもある。人からの視線に敏感な私にとって、意見を公に晒すほど怖いことはない。せめて、意見を言えるほどの人間になれたらコラム記事を書こう。そういう判断をするであろうし、多くの読者もそれがまともな判断だと考えるはずだ。

 

しかし、いまの私はそんな判断はしない。ここで辞めてしまうと“いつもの通り”、また人からの視線に負けたということになるからだ。他人の視線を中心に物事を考えてしまうと、すぐに辞めることに繋がってしまう。例え他人にとって不快であっても、やめてしまうと何も成長しない。表現の自由や、言論の自由を盾にしてでも、人から糞味噌言われようと、続けなければ意味がないのである。不快に思う第三者というのは、自分が不快だからやめろと言っているのであって、それは私自身の成長や、状況を何も考えていないのだ。そんなものに耳を傾ける必要はない。

 

以前運営していたサイトを個人的な事情で急遽やめる判断をした際、ずっと読んで下さっていた読者の方からこんなことを言われた。「貴方の行為は貴方の未来の読者に対する裏切りに他なりません」、「仮にも『編集長』を名乗ったのなら、貴方にはまず『残し続ける』責任があります」と。はじめは私が執筆した文章をボロクソに批判してきた人で、考えや意見は正直合わないことが多かった。だが、1年ほど記事を書き続けていると「縁あって毎回拝読している衣田さんの文章。タイトルや文末に見受けられる『自信の無さ』は相変わらずだが、以前に較べ成長の証を犇々と感じる。伸びて欲しいなあ」とTwitterに書き込んで下さっていた。私の記事をずっと読み続けてくれていたのだ。そういった人からの忠告は今でも心に残っている。

 

「他人の視線に負けない自分を作ること」と「読者をもう裏切らない」。こういうバックボーンがあるからこそ、私はこのサイトを続けなければならないのだ。それがいくら批判を受けても、どんな目でみられているか分かっていても、私がコラムサイトを続ける原動力になっている。

 

私がこれほどまでに「他人の視線に負けないこと」ばかりを文章にしているのは、それだけ重要なことだと認識し、多くの人に訴えるべきと考えているからだ。現代文でも重要な部分は何度も繰り返して書かれているのと同じように。そう思うようになったのは、やはり他人の視線で苦しんできたことがたくさんあるからである。人の意見ばかりを気にしていると自分を失くし、いずれ何も出来なくなる。そうならないためには、強いバックボーンや信念を持ち、人から「なんやあいつ」と写メを撮られてツイッターなどに投稿されようが、笑われようが、噂話を立てられようが、やり抜ける力を持たなければならないのだ。例えどんなに奇人変人であっても、たとえ笑われてもやり抜くことが出来る人間を、私は周囲に惑わされずに評価し、尊敬し、また羨ましくおもう。

 

人からの視線を気にせずあえて好きなことをするのは、長い目で見てとても賢明な判断だ。「あの人ならしょうがないな」というイメージを周囲に持たせ、徹底的にやりたいことを行動に移せる環境を自ら作っているのだ。意図的にではなくとも、少なくとも結果的にはそうなっている。愚かな私はくだらないことに悩まされ続け、自分の行動を制限し、これまで何もできずにいた。そう考えた時、街やネットで晒されたり、バカにされたり、噂されたりする人物の見方がまるで変わってくる。そして、変人を噂したりバカにしたりする“常識人”こそ、他人の視線を気にする何もできない愚か者なのである。

 

私はもう“常識人”なんて、まっぴらごめんだ。


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