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自説|事実と真実―新聞記者はファクトがなければ語れないー

評論家の宮崎哲也氏が「新聞記者はファクトがなければ語れない」と某テレビ番組でおっしゃっていた。その通りだ。取材で事実の素材を収集し、必要な情報を取捨選択し、まとめて読者に提供する。それが新聞記者の本分あり、事実と異なる記事はもちろん、推測で記事を書くことは許されない。

 

解説や社説などでは記者や新聞社の考えが入ることもあるが、基本的には客観的な報道を心がけなければならない。例えば、最近話題になっている別府市・中津市の生活保護受給者がパチンコ・競輪等遊技場へ立ち入りしたことで生活保護支給停止した問題。例え、取り締まる市側と支給停止は違法とする弁護士側のどちらかに記者が共鳴したとしても、原則両方の意見を取材し、記事として掲載しなければならない。

 

このように取材をして事実を拾い上げていくのだが、取材をしていると落とし穴もある。事実と真実は違う時があるのだ。小さなところで言えば卒業式の取材では、時間の都合上、式の前日やその前に祝辞や答辞代表者、送辞代表者名を電話で聞いておくことや、FAXで送ってもらう、または当日に報道資料として作ってもらっておくことがある。

 

そういった資料は、学校側が作成し報道陣に発表するのだが、その資料通りに記事を書くと人名を学校側が誤って書いていることがあるのだ。人間がやることには必ずミスがある、記者にもいえることだ。それは人間であるから仕方ない。しかし、学校から発表があった事実は、真実ではなかった。事実を記者として正確に書いても、真実でなければ読者は「誤報」と見なし、マスメディアにとってなくてはならない読者との信頼関係を失ってしまう。

 

そこが記者という仕事の難しいところである。真実というのは神様でない限り、当事者以外は分からない。事件であっても、政治家の汚職であっても、先ほどのような小さな行事でも、どこまで事実を掴み真実に近づくことが出来るのか。ただ目の前の掴んだ事実を疑わずに記事にしてしまうと、とんでもない誤報を書いてしまうことがあるのだ。

 

取材でも当事者と親しい人から帰ってきた答えと、当事者本人から帰ってきた答えとでは全く違う事実だったことがあった。とある展覧会の取材に1人で行ったときのこと。まだ1人取材が慣れていなかった私は、親しい人から聞いた‘事実’を記事として使おうと思っていた。、ところが、なんとなく裏付けを取ろうと本人に質問したところ、違う事実が示されたのだ。私は驚き、結局記事には書かない「捨」の判断をした。この時に事実と真実の差を痛感したのである。もし裏付けを取らずに、親しい人の話をそのまま記事として掲載していれば、次の日に私は訂正記事を書いて読者に謝罪しなければいけなかった。

 

真実というは、ただの人間である1記者に分かるはずがない。それでも真実を追求しなければいけないのが新聞記者である。なんとも無理がある仕事内容であると思うが、その気持ちを忘れては新聞記者としては失格なのである。

 


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