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2019年01月22日(水)
自説|うるせえ、だまっとけ!

多くの現代人が「生きづらい、窮屈な社会だ」とため息を吐きながら嘆く。

 

同感だ。特にこの10年、インターネットの普及やSNSによる「誰もが発信できる時代」になってからというもの、毎日のように「炎上」と呼ばれる現象がおき、何かにつけて誰かを糾弾する声があがっている。コンプライアンス遵守が今や当たり前の時代とは言え、それがモラルまで波及し、そして行き過ぎるとモラルを盾に個人攻撃に走っていく。息苦しくなるのは当然だ。誰もが他人に聖人君子を求めたがるが、自分がなれと言われれば無理なように、人間というのは本来醜い生き物なのだ。

 

以前、本サイトで「自説|実は宗教的な日本人」という記事を書いたが、周りからどう見られるかを誰もが気にして、そしてお互いがマナーや常識を守ることを相互に監視しあっている。「私たちは我慢しているのだから、誰もが我慢すべきだ」と言わんばかりだ。あらゆる批判を目にしても本質的な「何が悪いのか?」という問いに、明確に答えられる人はどれほどだろうか。

 

そういう者たちは総じて「常識としてありえない」と答える。それは決して本質的な問題ではない。一体なにが悪いのか?一体なにが問題点なのか?そこを答えてほしいにも関わらず、常識を盾にして誰かを糾弾する人間が私はとても嫌いである。こういうと「めんどくさい人」と思われるだろう。だが、糾弾するということはその人の「幸せ」や「自由」を制限することになる。それにも関わらず浅い考えで、本質的な問題点を答えられずに糾弾するなど、とんでもないという考えを持っているからだ。

 

個人によってそれぞれ価値観は大きく違う。芸能ニュースや常識外の出来事が起こると、ニュースのコメント欄は批判コメントが殺到する。しかし、私はそういった世論とは立場を異にすることが多い。「本人たちが幸せならばそれで良いことなのに、この人たちはなぜ口出ししているのだろう」と思うこともあれば、「何が問題なのかそもそも理解できない」こともある。私は社会の常識よりも、個人の幸せを尊重・重要視するタイプなので、特に誰にも迷惑をかけていないものであれば容認する傾向が強い。例え醜いものであろうと、それが人間というものだ。

 

「醜さは人間らしさ」。文学や映像作品においても、人間の醜さは必ず描かれる。全員が聖人君子の世界など面白味のかけらもない。誰かに直接的な被害・迷惑をかけるものでなければ、そういった醜さや常識外なものであっても、現代人は糾弾するより受け入れる広量さが欲しい。他人の醜さを受け入れることで、初めて自分の醜さも自覚し、受け入れることができるはずだ。社会全体的に幸福度があがるには、糾弾よりも受け入れようとする心ではなかろうか。

 

こんな息苦しい社会で生きていこうと思えば、時にタイトルのように「うるせえ!だまっとけ!」と開き直る精神も必要になる。それが自らの個を守ることにもなるのである。強さと心の広さを両方併せ持った人間として生きていきたいものである。


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