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自説|発言する”人物”が重要か、それとも発言の”内容”が重要か | SHIGEFIKA

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自説|発言する”人物”が重要か、それとも発言の”内容”が重要か

2011年に70億人に達したと言われる世界人口。それは70億人もの人間がそれぞれの考え方を持ち、それぞれ社会に言いたいことを抱えているということだ。幸い私が生活している日本では「言論の自由」「表現の自由」「思想良心の自由」が憲法により保障されている為、私みたいな人間でもこの様に好きにウェブ上で発信することができる。

 

ウェブサイトを運営していると、自由を享受しているという実感が沸きでてくる。もし上流階級にしか上述の自由が認められていない国に住んでいたならば、私の愚見は誰の目にも触れることはなかっただろう。改めて自由が保障されている憲法には感謝しなければならない。

 

しかしながら、発信は誰にでも可能でもその発信を見てくれる人がいるかどうかはまた別の話である。いくら発信出来たとしても、見てくれる人間がいなければ、その発信にはなんの価値もないのだ。多くの人間に自分の発信した内容を読んでもらえるという者は限られた人間であり、そう多くない。

 

多くの人に読んでもらう為には、その人間の”人間力”や”社会的影響力”が大きく起因してくる。芸能人、何かで成功した者、社会的に注目を集めた者、周囲の人間から慕われている者などだ。つまり何らかの”力”を持っていなければ、自分自身の声は誰にも届くことがない。

 

一方読者側からの視点に立った時、やはり失敗した人間よりも成功している人間の話が聞きたいと思うだろう。知らない話を聞きたい時に、その話に精通している人間の方が説得力がある。やはり、発信する人物が”力を持った”人間であるか、どうかは読む側にとって、重要な情報だと言える。

 

しかし、”発信する人物が重要”というのは、その話の本質を知らない人間が、根拠や説得力を求めるために重要だと言うのであって、話の本質の部分を既に理解している人間にとっては、話している人間が学者であれ、学生であれ、ニートであれ、”内容”の方が大事なのである。

 

例えばだ。今年大きな話題となった安保法案の是非について、1つの論文を発表するとする。その書いた論文の著者が学者であるか、ニートであるかによって、書いた文の内容はほぼ同じでも人によっては見え方が変わってくるだろう。安保法案について何も分かっていない者が読んだ場合、恐らく学者が書いたという論文はすんなりと中に入ってくるが、ニートが書いたというと文章に懐疑的になるはずだ。下手をすれば、書いた人物が”偉い人が書いているのだから”と、内容よりも書いた人物によって評価が変わってしまう。心理学で言うハロー効果に近いものがあるだろうか。

 

ところが、これを安保法案に元々詳しい人間が読んだ場合はどうか。自分が元々詳しいとなると、内容を見て人物を評価することが出来る。つまり、全く同じ内容の論文であるこの学者さんとニートさんの論文は、同じ評価を受けることになる。このように読み手の知識量によって、評価というのは大きく左右されるものであると私は思う。

 

私には人間力がないため、ブログやTwitterで発信しても、読んで頂ける人間は残念ながら少ない。しかし、嬉しいことに、時たま見ず知らずの読んで下さった方から評価して頂けることも稀にある。多くの人間から評価をして頂けるブログでは全くないが、評価して頂ける人もいるので、”内容”にこだわり更新し続けたい。

 

どんな人間であっても、内容によっては評価してくれる人間はどこかにいるかもしれない。自分がどんな人間かをそこまで気にすることなく、思ったことや考えたことを、自信を持って発信していく人々が増えていって頂きたいと切に願う。

 


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