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自説|ヒトのええ加減さと、最も評価すべきヒト

本日の記事は、多くの方からお叱りを受けることになるだろう。もしくは私の人間性を非難する人も現れるに違いない。しかし、私は今まで”人から嫌われる”ということに耐性が無く、それを最も恐れ、生きてきた。今回はそんな自分自身を自己否定するためにも、嫌われる覚悟で記事を書いていきたい。

 

人間には、ひとりひとり尊敬すべき部分もあるが、軽薄で卑劣な部分も存在する。それが共在し、1人の人間として構成されている。その人の一部分を切り取れば、尊敬の念を抱くが、また違う一部分を切り取れば、嫌悪の気持ちを抱く。そして、私たちはその一部分を切り取って、人を判断していることが実に多い。

 

だからこそ、少しその人を知っただけで、嫌いになったり、好きになったりとコロコロと評価が変わってしまう。そういう意味では、他人に対する評価など、きわめて「ええ加減なもの」と言っていい。従って、私が他人にしていた評価も”ええ加減”なものであるから、私が行った評価など誰も気にすることはない。

 

また、次に人間の「ええ加減なもの」として挙げたいのが、”ダブルスタンダード”なところである。例えば、友人が自己否定を繰り返し、自殺してしまいそうな場面に遭遇する。そんな時に人はなんて言うか。「良い所が無い?そんなことない。君には良い所いっぱいある」だの、「自信を持て」などを言って励ますだろう。ところが、その人間が「自信満々」になって、自己肯定を繰り返していたら、「鼻につくな」とか「鼻っぱしらをへし折ってやりたい」などと思うのではないだろうか。そして本人に対し、否定的な言葉を浴びせ、「謙虚になれよ」と叱責するに違いない。

 

この”自己否定しなきゃいけない”という感覚が、私は猛烈に違和感を覚える。我が国の自己肯定感が育ちにくい一面も、こう言った文化、日本人の人間性や余裕のなさにあるのではないか。自己否定(世間一般的に”謙虚”といわれる)をする人間は、人間として出来ている、謙虚なほどいい人間だと言わんばかりだ。「鼻につく」「いやらしい」という自分勝手な心理をもって、自己肯定感抱く相手に、自己否定の精神を押し付けるなど、それが”普通な感覚”であっても、とても褒められる行為とは言えない。自己肯定を出すことが、人間(他人)が勝手に抱く”醜い個人的な感情(嫌悪感)”以外になにがいけないというのだろうか。

 

私たちは、こうした”ええ加減”な評価をとても気にして、右往左往させられている。そして”常識”や”当たり前”という型にはめようと、他人を支配し、自分自身も支配されている。”当たり前”から外れた人間は、”人間性裁判”によって、排除されてしまう。裁く側の人間は”常識”というルールブックを持っているため、罪悪感すら持たずに排除する。だから、人間というのは恐ろしく、怖い生き物なのだ。

 

社会の評価基準としては、協調性があり、友人が多い人間がとても評価されやすいが、他人の評価や他人の目を気にしようとしない、一匹狼な人間は、あまり好印象を抱かれない。しかし、私は他人の目を気にしない人間が最も評価されるべき人間なのではないかと思う。

 

それは型にはめられず、周りに合わすことがないため、自分というものをしっかり持っている。その強さがあるから、自分を苦しめることもなく、他人に常識を強要させ苦しめることもない。私は一匹狼と言われているような人と、交流することがあったが、息苦しさを感じることは一切なかった。自分が異物であるが故に、人と”異なる人間”を迫害することもなかった。そんな人達を私たちはどこか過小評価していないだろうか。

 

残念なのは、こうした一匹狼の人間は、醜い人間が集まった”集団”によって、まるで”人間失格”の烙印を押され、排除されてしまいやすいことだ。それでも、自分というものをしっかり持っている”強さ”があれば、排除されても構わないのだろうが、そんな人間が評価されにくい社会の評価基準が実に残念だ。

 

また、昔の私も社会の評価基準が正しいと思っていたことに、”恥”を感じている次第である。”自分”というものを持っている人を、私は尊敬し、評価していきたい。

 


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