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自説|私が”宗教”と価値観が合わない理由

この世で私個人として最も不思議なものと言えば、宗教である。理由は今回のテーマと大きく逸れてしまうため割愛するが、とは言いつつ、私も宗教に関わったことがある。幼稚園は、お寺が運営する幼稚園に入園し、小学校はカトリック系の私立小学校だった。宗教系の学校に入ったのは、両親がただ単に教育的な考えから選んだ学校が、たまたま宗教系だったという話だろう。

 

周囲の人間を含め、私は色んな宗教を間近で見てきたが、宗教というものは私と考えが合わないと感じている。もちろん今までの歴史を見ても、これだけ長い間宗教というものは人々から受け継がれてきたものであるから、人類の上では必要と感じている人間がいることも事実であり、それを否定するものではない。ただ自分とは考えが合わないだけである。

 

具体的に、宗教と私と何が合わないのか。それは”自分自身で考える”か否かである。宗教には教義というものが存在し、それを教えられ、受け入れ、継承していく。もちろん信徒の方は教義を受け、自分なりに教えを聞いて、考え、納得したことなのだろうが、考えるという行為を行うと、必ず「本当なのだろうか」とか「こっちの方がいいのではないか」と考えが派生していくものだ。ところが、教義に疑問を抱くと「素直に受け入れる心を持たなければいけない」だとか言われ、教義を素直に受け入れること=良いこと、教義に異を唱えること=いけないこと、という同調圧力や、そういう風潮がどこかにあったりしないだろうか。

 

その教えによって”救われた”という人もいるからこそ、宗教は現在も存在し続けるのだろう。そこの価値は私も認めるところである。そこに価値を感じている方は宗教をする、それでよい。だが、私は”自分自身で考え、答えを出すこと”に価値観を抱いている。偏屈な私は、”素直に受け入れることに価値観が置かれやすい宗教”とは、とても合わないのである。

 

私の穿った見方だが、宗教は”教義”や”神や仏などの絶対的な力”などよりも、”多くの人間が同じ価値観を共有すること””同じ価値観を共有さえすれば、受け入れてくれる居場所になる”ことが宗教が万人から受け入れられる魅力になっているのではないかと推察する。そこには結束感や、”良いこと”を多くの人間と一緒に行う達成感、何か良い行動を起こせば起こすほどきちんと認められていく充実感、多くの人間が同じ目的・目標・価値観を持っている共有感、共感、そして、自ら他人や自らのことを願い、祈る慈善的行為を含め、総合的にそれらが心地よさを感じる要因となるのではないだろうか。

 

心地よいと感じる場所に行くという選択をするのは人間として当然で、最もだ。同じ価値観を共有する者といれば、考えることもなく、語弊を恐れず言えば”楽”である。一方、私のような”素直に受け入れない”タイプの人間は、とても”しんどい”生き方と言える。多くの人間が受け入れている事実を、立ち止まり、本当にそれが正しいのかと異議を唱える。はっきり言って、「メンドクサイ」と言われるタイプだ。家族からも仲の良い友人からも、「メンドクサイタイプの人間」とは良く認識されている。だから、私は友人も多くはないし、私のことを知れば知る程、距離を置かれてしまう。

 

しかし、それで良いのである。私は”自分で考え、自分で出した答え”が好きだ。無論、他人から受ける影響もヒントも頂くが、最終的な判断は自ら決めたい。社会が、宗教が、周りが、では無く、自ら決めたいのだ。私は今、ずっと立ち止まり、無意味なようにひとりで考える時間を続けているが、”生きづらさ”というのは、いつも外からくるものであることにようやく気付いた。

 

生きる道や、正しさは、幾億もの人間の通り存在し、”多様な考え”があっていい。例え、自分1人以外の人間から間違っているとバッシングを受けようと、排除されそうになろうと、自らが好きならばそれで良いのだ。常識や、暗黙のルールや、社会によって自分を作るのではなく、自ら自分というものを作り出すことこそ価値がある。

 

やたら言葉を並べているが、極めて簡単に言うと「もっと自分をもっと大事にしようよ」ということである。周囲から見て、自分はダメだと思われているから、色んな意味で自分を殺す、将又殺そうとしている人間がこの社会に何人いただろう。もっと自分自身というものに価値観を置いてもいいのではないか。他人ではなく自分に価値観を置くことが、最も大事なのではないか。社会に負けそうな時、自分を殺しそうになった時、私はそう思うことに行き着いたのだ。この考えはきっと、社会に負けそうになった人間にしか分からないだろうが、そう思うことで、どんな生き方であっても、私は生きる道を、生きる価値を見いだすことが出来たのである。

 

宗教をすることを、否定しているのではない。自分が居心地が良いという場所に行く選択をすることも利口である。宗教を選択したならば、宗教を選択した自分を大事にすべきであるし、その選択を自ら尊重すべきだ。ただ、私は”自ら自分で答えを決めたい”という考えを持っており、教えに従うということには必ず反発するだろう。しかし、どちらを選択する人間がいてもいいのである。

 

何故ならそれは、”自分で決めた選択”であるからだ。

 


  

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