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自説|誠意ある謝罪会見とは何か

謝罪会見で、頭を深々と下げお詫びしている人間をワイドショーなどで目にする。ああ、またか。私は辟易する。謝罪している者にではない。謝罪会見そのものにだ。そして、どこぞの記者が公共の利益の名の下、糾弾する質問を投げかける。その糾弾する質問に対して、深々とお詫びしている人間を我々国民はどのような思いで見ているのだろう。

 

とあるドラマの中で「薄汚い野良犬がどぶの中に落ちると袋だたきに一斉に叩く」という日本の国民性を表現したセリフがあった。謝罪会見はまさにそのセリフそのもので、悪いことを行った人間が追及を受け、狼狽える姿を見るのがこの国は大好きだ。その会見を見てさらに国民は言う。「誠意が感じられない」と。しかし、どのような謝罪なら、その誠意は感じられるのかという問いに対して、明確に答えられる者はどれ程いるのだろう。

 

悪いことを行った人間をとことん糾弾したい国民と、謝罪会見を行わないと叩かれるから謝罪会見する者たち。本当にこの謝罪会見というのは意味があるのだろうか。そもそも謝罪というのは、被害を受けた人々だけで良い。もし国民に向けて会見をするならば、それに及んだ経過や真相、その釈明だけで良いのである。しかし、釈明をしようものならば、マスメディアや国民からバッシングされることになる。とことん糾弾したい国民は「反省していない」と言うからだ。結局、真実を知りたいよりも、悪い者を糾弾して狼狽える姿を見て、正義となった気分になりスッキリしたいだけなのだ。

 

こうした謝罪会見を見て、”誠意”とはなんだろうと考えさせられる。多くの国民がいう”責任”とは何なのかとも。謝罪会見はある意味子ども達への見せしめという大義名分があるのかもしれない。悪いことをすると、全国民から非難されて、悲惨な目にあうぞと。だから悪いことをするんじゃないぞと。だが、地獄に落とせばそれでいいのか。更生よりも地獄に落とすことを国民が望むならば、それは愚民とも言うべきだ。地獄に落とそうと思えば簡単だ。国民が結束して、その人物をいじめればいいだけなのである。最も肝心なのは更生させることであり、自ら更生しようとすることである。少なくとも今の謝罪会見の模様を見て、健全さなどは微塵も感じない。

 

この世に完璧な人間などいない。誰しも醜く、卑劣で、愚かな部分を持っている。それをいかに隠すかに重点を置き、”まともな人間”を装うことが、この社会の正しい生き方となっている。しかし、いかにうまく隠しても、人間皆が愚かな一面を持っていることに代わりはない。罰を与えて終わりという訳ではなく、更生させることが最終目的でなければいけないのだ。

 

悪いことをした側を掩護する気はない。しかし、追及する国民やマスメディアの”正義感”というのは、健全たる正義感なのかは多いに疑問である。悪いことをした側の謝罪会見での謝罪も、パフォーマンスに過ぎず、意味があるものと思えない。従って、謝罪会見がある種の”イベント化”するのならば、即刻やめたほうがいいのではないだろうか。

 


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