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自説|最底辺の”幸福”

資本主義社会は、”自由競争”という大きな原理があり、そこには格差という問題が発生する。日本はこの資本主義経済であり、経済的には裕福な国であるものの、先ほど述べた”格差”が問題視され、近年テレビや新聞で大きく取り上げられている。だが、資本主義を取り入れているのだから、格差になるのは当たり前のことであり、それを少しでもなくしたいというならば社会主義の要素を取り入れなければならない。

 

この”競争”と言うものには、必ず勝者と敗者がいる。敗者がいるから勝者があり、勝者だけの世界というのは競争社会ではありえない。こうした社会の中、私自身は、敗者で”最底辺”に位置していると言っても過言ではない。

 

そんな私は極度の寂しがり屋であり、その寂しさを紛らす話相手を見つけにいくため、とあるチャットルームをよく利用している。そんな場に置いても「クズ」「死ね」「甘えんな」「お前が死んでも日本にとってなんの損失もない」「なんで生きてるの?」などと、罵倒されることがしょっちゅうだ。

 

これらの言葉を浴びせられるが、それは全て”紛れもない事実である”ことから、その事自体に反論するつもりはない。それどころか、自分自身が”最底辺”と言われる場で生きていることを実感させられる。私立小学校に入学させてもらい、両親から期待され続けてきたが、見事に両親、そして恩師たちの期待を裏切ってしまった。私は長男であるし、いつの間にか世間から罵倒される立場で生きていることを本当に情けなく思う。先ほど紹介した罵倒してくる人間に対しては、「下を見て叩くものは、何かに行き詰まり、下を見なければ自分の存在価値が認められないほど追いつめられているのだろうな」とも思っており、下にいる私の存在が、その人間の存在価値をもたらすものならば、最底辺の私でも人の役に立つこともあるのだな、などと暢気に考えている。

 

ところで、その”競争社会”の中で必ず出てくる、私のような負け組=最底辺の人間は、幸せになることは出来ないのだろうか。競争社会で勝ち組と呼ばれる人は、上に行けば幸福度が高い人も当然増えるが、全員が幸せと言う訳でもない。とするならば最底辺にも無論例外と呼ばれる人もいるはずで、最底辺には最底辺なりに幸せだという人間もいるかもしれない。もし自分自身が幸福と感じるならば、周りからみて最底辺であっても何の問題も無い。そこに幸せの本質が隠されているのではないか、そんなことを考えてみた。

 

その境地にたどり着くためには「比較しない生き方」を実践しなければならない。他人と比較すると最底辺の人間は、幸せに感じることなど皆無に近いからである。”他人からどう思われようと、自分は自分。それで何も問題がなければそれでいい”という考え方だ。競争原理が削がれる考え方とも言える。向上心など、競争原理が働いて比較し、比較され続けることによって、高見を目指すこの国の仕組みとは、反対の考え方かもしれない。

 

そして、”プライド”や”恥”という気持ち、さらに”他人の目”に負けない、芯のある気持ちと考えを持ち続けなければいけない。確固たる気持ちや考えを持っていなければ、すぐに他人と比較してしまい、気持ちと人からの視線に負け、不幸の連鎖につながってしまう。これは最底辺だけに留まらず、全ての人間にいえることだ。

何かを行動にうつすとき、また何か物事を考えるとき、他人との比較、他人の目、プライドなどがそれを邪魔をする時がある。幸福になるためには、自分が幸せになろうとするために、まず邪魔するものを振り払うことが近道となる。振り払えば行動力が広がり、余計なことは考えないなど、圧倒的に効率が良くなる。取り払うためには、何度も何度も自分自身の中で考え、確固たる心の答えを見つけ出すことからのスタートだ。

 

私や、この文を読んでいる幸せだと感じていないあなたは、何故幸せでないのか。それは社会の最底辺にいるからではない。ちっぽけなプライドと、他人と自身を比較しつづけ、他人からの視線に負けているからである。それを取り払うことは、この社会では決して簡単なものではないが、それを取り払えたとき、きっと幸福に近づくことだろう。


  

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