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自説|自己責任論の”光と影”

この国は”自己責任”が大好きだ。自己責任という言葉は、誰の耳にも聞こえが良く、その言葉を使用する者への信頼度・好感度・説得力は一般的には増していく。それに何と言っても格好いい。理不尽なことでも、自らが責任を取る。日本人の美徳とするところの”人のせいにしない”を尤もらしく体現する言葉だ。我々日本人が自己責任が大好きなのもよく分かる。

 

大衆向けのドラマや映画を見ていても、主人公が「私の責任です」と言って、理不尽なことも受け入れる場面をよく目にする。それを見た視聴者の多くは「言い訳しないところがかっこいい」と主人公に対して賛辞を送っている。

 

しかし、この自己責任には大きな落とし穴が待ち構えている。それは、本来責任を負わなければならないはずの者が、責任を負わずに済んでしまうことだ。「言い訳をしないことがかっこいい」という感覚は、日本人としては理解できる。だが、本来失敗した原因となるべきものを取り上げる機会を失い、くさいものに蓋をして、本質的な問題に辿りつかなくさせる。

 

もっと言うと、自己責任にしてしまえば、周りの人間は”面倒くさいことを考えずに済む”のだ。「自己責任でしょ」「言い訳なんて見苦しいですよ」と一言言ってしまえば、”人のせいにしない”ことが美徳であるこの日本では反論する余地すらなくなってしまう。反論すれば、「言い訳がましい見苦しい人」とレッテルを貼られてしまうため、私の責任ですと認めざるをえない。こうしたものが”美徳”となってしまうことに、疑問を感じる私は日本人としておかしなことなのか。

 

確かに本人の責任という部分も当然ある。自己責任を完全に否定するものでは決してない。だが、物事はそう単純に出来ているわけではなく、たくさんの事柄が複雑に絡み合って出来ている。本人の責任となる部分と社会や本人以外の人間の原因となる部分それらが組み合わさって1つの事象が起こっていることが多い。

 

例えば、大学に進学したいものの貧困家庭から大学に行くことがままならず、労働するという選択をした場合。自己責任論となれば「勉強して、成績を挙げて国立大学などの授業料が安い大学に行けばいいことじゃないか」「必死に勉強しなかったお前が悪い」となる。ところが、貧困のためにバイトをせざるをえなかった為勉強することもままならなかったという事実があったり、海外のように”学ぶ機会は誰でも平等に”という理由で大学までの授業料が無料化されているが、この国では貧困により学ぶ機会が失われる事実があるとしたら、それは社会の責任ともいえる。この例の様に単純に自己責任だけで済ませていいと思えない事象も数多くあるのだ。

 

それにも関わらず、「言い訳だ」「人のせいにするな」と非難して、原因や責任の所在を本人だけに押し付けてしまっていいのだろうか。それを良しとするならば、それこそ無責任ではないか。

 

原因や責任の所在を本人のものだけにすることは、根本的な解決の糸口を封じることを意味する。それは今後、同じ轍を踏む人間もまた同じく本人の責任にされ、それが未来永劫続いてしまう。これは”弊害”というほかない。

 

言い訳は、どんどん言わせるべきである。どんどん言い訳を言わせて、本当にそこに責任や原因があるのかを考えようとすることが、本当の意味で責任感のある者の行為だ。その機会すら日本人の美徳として与えないのであれば、まさに”美徳の不幸”が日本に存在することとなる。それは不健全ではないだろうか。

 

以上の主張をすると、きっとこう返されるだろう。「甘い。これが社会っていうものだ」と。しかし、それを受認するしかないならば、私たちは社会的な奴隷となっているに等しい。理不尽なことも、声を挙げることもなく、受けいれることが正しいというのか。

 

これは社会が間違っているのか、私が日本人として間違っているのか、果たしてどっちだ。

 


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