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自説|おとなってなんだ

あと2ヶ月ほどしたら私は25歳を迎える。25歳といえば世間一般的に「立派な大人」と言われる年齢だ。30歳も視野に入り、年齢を重ねるにつれて未熟な部分は次第に認められなくなっていく。若いうちは未熟な部分があって当然と受け止められるが、年齢を重ねるだけでそれは「非常識」という言葉で非難される対象に様変わりだ。

 

多くの人は年齢で大人と子供を区別する。その基準は国によっても違い「15歳」「18歳」「20歳」がひとつの区切りとなっている。しかし、その基準というのはただの年齢によって区別しているだけであり、その人の精神的な成熟さなどの人間性を吟味することはない。例え精神的に未熟な人間でも、成熟した人間でも、「平等」に大人と認識されるのだ。

 

しかし、15歳〜20歳の自分を思い起こした時に自分の中でなにか劇的な変化が起こり、いきなり大人になったかと言われればそんなことは全くない。私は24歳になったいまでも未熟なままであるし、親から自立できない現状は子どもであろう。中卒後に仕事を持ち、生活している人間のほうがはるかに大人だ。中学生・高校生にも私よりはるかにしっかりした考えの持ち主は大勢いる。それなのになぜ私は大人であり、彼らは子どもなのだろうか。私だけじゃなく年配の方々のなかにも年上というだけで、何の考えもなくただ威張りちらすような未熟な人間もいる。

 

そもそも大人と子どもと2極端に区分けする必要はあるのか。2つで区分けしようとするのは、面倒な手間を省くための「人間の怠惰」であり、一律に税収を徴収できないなどといった「大人の事情」というやつだ。近年、日本では20歳から18歳に選挙権が引き下げられ「大人」の年齢が変わろうとしている。大人の対象年齢を変化させることができるほど、大人という基準はかなり曖昧だということがわかる。それなのに何故我々社会は定義があいまいな大人か子どもかで議論しているのだ。そうやって一括りにしてしまえば、誰だって大人という理由で非難も簡単に出来るが、実態は個人個人によって違うのは当然のことではないか。大人か子どもかで是非を問うような主張にはあまり説得力が感じられない。

 

私が思うに大人という便利な言葉は「人間として生まれてきた以上、こんな人間になりなさい」と勝手に社会が作ったようなものだ。だから「大人のくせに」「大人なんだから」という論法が成立する。「大人はこうあるべきである」という社会の理想像に、どれだけ合わせることができるか、近づくことができるかというのが人間力の指標なのである。以前の記事で述べた(自説|実は宗教的な日本人)の根本的な考え方だ。

 

年齢によって個人を非難しようとしている人間は、なぜ年齢によって区分けしているのか。区分けの年齢はなぜその年齢なのか。大人と子どもの違いはなんなのか。これらの問いに対して、明確に自らの考えを持っていなければ、その主張が説得力を持つことはないだろう。


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