好きなことを好きなだけ表現する

個人ニュース、コラム、写真などコンテンツ豊富なオピニオンサイト

自説|何事も「余裕」がなければ、まともな判断を下せない

 

何事も「余裕」というものが大事だ。

 

余裕さがなければ人はまともな判断や人のために判断をすることができない。災害が起きた時を考えてみればいい。いざ自分の命が失われようとしたら、それまで冷静に他人を慮って行動していた人たちが途端にパニックになって、我先に助かろうとする。生命の危機に陥った時、自分の命や身内の命を優先させる。

 

恋愛でもそうである。モテる人間とモテない人間の最大の格差は、余裕のある判断力ができるかどうかだ。モテる人間はいつでも次の恋愛をすることが容易なために、相手におかしなところがあれば別れるという判断も視野にいれることができる。ところがモテない人間は、一度恋愛関係を断つと新たな恋愛ができない可能性がある。そのためなかなか別れることを踏み切れなかったり、または相手に固執してしまうこともある。

 

ニートや引きこもりだってそうだ。仕事をしたり、外出したり、友達と遊んだりしたほうが、本来は自分の楽しみを増やしたり、就職活動時に無駄なハードルを築かなくてよくなる。ところが心に余裕がなくなった彼らは、それを犠牲にしてでも家や自分の殻に閉じこもるという判断をする。もし心身ともに余裕を持っていれば、そんな判断をする人間は少ないだろう。

 

行動経済学が研究される以前の経済学では、人間は経済的合理性に基づいて判断すると想定されてきた。いわゆる経済人というやつだ。しかし、実態は上述したように、心に余裕がなければ自分が将来的に損になると分かっていても、現在の自分を優先する判断を下すことが多くある。

 

甘えさせないことが処方薬と勘違いしている人も日本社会では多いように思うが、それだけで世の中の何十万人といる引きこもりたちが治るなら楽なもんである。つまり、間違っている。サボりたいからずっと家に引きこもっているわけではない。原因がサボりたいというものなら、無理矢理仕事をさせているうちにやりがいを見つけて治すことができるかもしれない。しかし、原因がサボりではなく、社会的要因や精神障害による心因的な問題だった場合、強制的な外出や労働によって治癒するとは限らない。

 

多くの人々は原因というものを軽んじているか、特に何も考えずにイメージ優先で「引きこもり」や「ニート」と決めつけているように思える。さらに結果ありきで、「引きこもりさえ治ればいい」と考えているのではないか。もしそうだとすれば、多くの人間が原因を勘違いしているわけだから、それに対する対処方法もめちゃくちゃになっているわけで、結果として何十万人という引きこもりが生み出されるのは必然と言える。

 

労働に勤しむ社会人だって、過度な労働によって精神的にも肉体的にも余裕がなくなって、時折自分自身の行動や心理に疑問を抱くときがあるのではないか。周囲の人間に当たったり、追い込まれたことによりこれまで違う一面が自分にあることが分かってくる。これら通常に考えればおかしいと考えるのに、そうした判断を下す場合、みんな共通して心に余裕がなくなっているのである。その判断は誰にも責めることが出来ない。いざ自分に置き換えた時にも、同じように判断してしまうことがある。

 

そんな中で、この社会は「とりあえず厳しくすればいい」と単純な発想で成り立っているように思う。ストレス社会のなかで、ストレス発散のために誰かを攻撃する手段を見つけたいとすら思える。しかし、厳しくすればするほど人間の心の余裕さが狭まることは自明であり、そんな人たちによってストレス社会は増大していっているのだなと思う。ただでさえ特に他人に配慮しなければならない社会の上に、さらに人間を縛り上げる厳罰化を求める人間で溢れかえっているようだが、それでこの社会の人間の心の余裕は保てるのだろうか。さまざまな細かいルールやモラルを設け、それに脱した人間を大義名分にして、さらに他人への攻撃が増えるだけなのではないか。国連による幸福度調査で他者への寛容さが低評価だった日本の現状を憂うばかりだ。


  

FavoriteLoadingこの記事をクリップリストに追加する 
SHIGEFIKA会員ログイン




パスワードを忘れた
新規登録
SHIGEFIKA会員とは
週間人気記事ランキング
最新記事
更新情報/Twitter
常論新聞
編集部からのお知らせ