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自説|言論に対して「好き嫌い」で判断する人間にはなりたくない

私が幼いころから持ち続けてる哲学は「へどがでるほど嫌いな人間でも正しいことを言っていると感じたら、『正しい』と言える人間になりたい」というものである。なぜそんな思いを持ち始めたかというと、自分が恵まれた環境にいたからだ。自分でいうのもなんだが昔は自分が人から嫌われたことなどほぼなかったと言っていい。すると割と自分の意見に耳を傾けてくれる人が多く、私に味方してくれる人もたくさんいた。しかし、自分が間違っていたことも当然のようにあり、あまり人から好かれていなかった友人がどれだけ「正論」を言っても、結果が出るまで誰も彼を味方せず、私を味方してくれた。そんな自分自身が恵まれている環境に対して、相手に申し訳ないと思ったし、かなり不公平に感じたのだ。

 

自分の周り以外でも議論中や、言論空間のなかで「あの人嫌いだから反対しておこう」という感情が散見されることがある。例えば不倫騒動が明るみに出た乙武洋匡氏がなにかを主張するたんびに「主張できる立場?」「説得力がない」などと一蹴されている主張を多く見かけた。それがまさに「人を好き嫌いで判断している」というそのものなのである。「不倫騒動を起こした人間は嫌いだから主張させたくない」「あなたが何を言っても説得力なんてない」と中身を見ようともせず、ただ不祥事を起こした人間というだけで主張が認められない。例えどんなに正論を言っていても認めようとしない。それは言論空間において正しいとは思えない。

 

嫌いという感情は不公平に繋がる。しかし、相手が正しいと感じたら素直に正しいと認めなければ議論にならない。意外とこれができない人間が多いように思う。議論や言論のなかで相手の好き嫌いや印象は全くもって関係ない。「話し方が偉そう」と批判する人もいるが、それも邪魔な議論だ。たとえ話し方が偉そうでも丁寧でもその人物がどういう理屈でどういう主張をしているかさえ分かればいい。「好き嫌い」を挟むと話が脱線するし、不毛な人格攻撃にしかならない。テーマについて沿った主張をしていればそれでいいのである。

 

生活しているなかでは、どうしても「好きな人」に異論を言いにくい場合もあるだろう。身内でどうしても味方になってあげなければならない場面もある。それは止むを得ない部分もあるが、「嫌い」に関しては完全な人間攻撃でしかない。私は嫌いな人間が主張した時ほど、相手の意見をしっかり聞く必要があると思っている。しっかりと意見を聞いて、感情を抑えて判断しなければならない。相手の意見が正しいと思うか、間違っていると思うか。それを嫌いという感情を抜きにして判断するのは、しっかりとテーマについて考えなければできないことなのだ。

 

また、嫌いな理由が明確であれば、それを利用して批判するとあたかも正論を言っている気になってしまう。まったく議論のテーマとは関係のないことを批判することで、自分自身の困った正義感や自尊心が満たされ、スッキリした感情になる。これも「好き嫌いで判断」してしまう大きな要因ではないだろうか。私自身ニートという肩書きだけで、話すらまともに聞こうとせずに、ただ否定されるということが幾度かあった。そういう人たちはおそらく「権威」と呼ばれる人物が私と同じ主張をしたら、尻尾振って「その通りだ」と言う、とても流されやすい体質だと理解している。なぜなら判断材料が主張の中身そのものではなく、肩書きや嫌いという感情だけだからだ。中身に対してきちんとした反論を持っていれば、もっと説得力のある返しができるはずである。そうでないなら、それは自ら騙されやすいタイプと言ってるようなものだ。

 

好き嫌いで判断することは個人にとっても、社会にとっても不利益を与える。ちっぽけな自分の自尊心を満たす以外に何も良いことはない。幼いころから感じていた「相手が正しいと思ったらきちんと『正しい』と伝える」という思いは、大人になるにつれて日に日に強くなっている。


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