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自説|「まともな人」になってはならない その理由

 

前回の記事(https://shigefika.com/opinion/theory/1099/)の続きになってしまうが、「いい人」であることをやめた理由のもうひとつは、「いい人」や「まともな人」であり続けるために、そうでない人を排除しようとすることにある。

 

人は自分の地位や生活、環境を守るために、「社会的に問題とされている人」「常人と違う人」を非難・批判することで自分を「いい人」「まともな人」であることをアピールしようとする。あからさまに「自分はそんな考え理解できないよ」とアピールすることで、周囲を安心させ、自分の地位を守るのだ。そこで相手の気持ちや考えがわかってしまうと言ってしまえば、一気に自分は「まともじゃない人」認定されてしまう。たとえ気持ちがわかってしまっても、批判・非難するほかない。なんとも卑劣な行為である。そして「社会的に問題」とされている人をただ非難・批判しあう人のみがコミュニティーのなかで存在感を増していく。

 

もちろん本気で理解できないこともある。しかし、望まずとも自分がその立場になってしまった人や非難している人間に対して「どうやって回避すべきだったのか」をアドバイスできる知識や、技術などはあるのだろうか。それが出来なければ“たまたま幸運にも”社会的に問題にならず、社会の常識と合致した立場・環境に身を置いているという理由だけで、他人を非難していることになる。いわゆる「まとも」と言われている人間は「幸運であることを正義と穿き違えて刀を振り回す存在」でしかないのである。

 

人間というのは全員がそれぞれ違っていて、好みも、今まで得た経験も、考え方も全部違う。そんな当たり前のことも忘れ、「なぜその人が常人と違うものを好きになったのか」「なぜそういう経緯に至ったのか」を吟味しようともしない。ただ、ルールや社会としての常識と違うからという理由だけで非難することに意味があるのか。「気持ち悪い」などと言って相手を切り捨てることは小学生でも可能だ。では、なぜその人物がその「気持ち悪い」という人間になってしまったのかという「理由」や、その気持ち悪さから脱する方法を考えなければ、気持ち悪い人間はいつまで経っても出てくるに決まっている。最近「社会的制裁」や「私刑」が巷では流行っているようだが、そんなもので根本的な解決ができるわけがない。力で押さえ込もうとしているに過ぎない。

 

「差別」と言われるものは大抵人々の理解不足から生じる。今では外国人が道を歩いている光景は普通だが、鎖国や攘夷運動は歴史上も知られている。例えば障がい者だってヒドい差別を受けていた時代があった。明治時代の1900年に施行された精神病者監護法は精神病者を私宅監置をさせる法律であり、この私宅監置は1950年の精神衛生法が誕生するまで続けられていた。精神障害は現在でも強い差別にあいやすい。少しずつ理解が広まりつつあるものの、人間は「知らないもの」への扱いが極めて不当になることは歴史が物語る。

 

当時、そういった差別を受けていた文献やら映画などを見ると、まともな人は「かわいそうだな」とお行儀の良い言葉を発するだろうが、翻って現代でも同じ行いをしている。「理解不足」や「理解努力」・「知識のなさ」によって他人を排除しようとしている。将来、科学の力によって解明されればマシになるかもしれないが、自分の立場を守り通すために「本質」よりも「タテマエ」を優先し、他人を排除することで人間関係を守られなければならないならば「友人関係」など必要ない。たとえ友人関係を失ってでも、私は「まともじゃない人間」でいたい。「タテマエ」によって他人を傷つけてきた過去の自分をぶん殴るべきだと感じる。

 

どんな人間でも心に秘めた思いや考えは存在しており、理解できなくても、少なくとも一度は相手の状況や立場を考える努力だけは忘れてはならない。そのためにはまず、自分は「まともな人間だ」と奢った思いを捨てることから始めるべきなのだ。自分がまともな人間だと思っている人は、まともな人間なのではない。まともそうに見せる技術がうまいだけの何も考えていない人間である。


  

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