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自説|他人の評価がいかに”ええ加減”か
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生きていく上で他人から受ける評価は、避けては通れない。残念ながら社会は厳しいもので、自分にとってうれしい評価ばかりではなく、時には厳しい批判やバッシングに合うことがある。その人物の考え方、性格を知っていくにつれ、人が離れていくなんてことはよくあることだ。

 
しかし、評価というのは一転二転する実にいい加減なものであると言わざるを得ない。代表的な例として、サッカーの試合で一試合でも活躍出来なければ「ダメだ」「もう○○の時代は終わった」などと言われ、次の試合に活躍すれば「さすが!」「誰だよ。もうダメだとか言ったやつ」などと賞賛のコメントで溢れ飼える。俗にいう手のひら返しだ。

 

一時的な感情で、評価をしてしまうのが人間だが、いかにそれが的外れであるかが分かる。即ち、他人にいくらバッシングを受けようと、批判されようと、気にしなくていいのである。他人からの評価を極端に恐れれば、何もすることが出来なくなる。他人から誹謗中傷されようと、自分の意見を大事にすることで道が切り開かれて行く。

 

私がこのサイトで自らの思想を公にするのには、少し勇気が必要だった。私の意見は極端な意見が多く、多くの人から反発を受ける記事をよく投稿するからだ。記事に目を通され、仲良かった者たちが遠ざかって行く感覚を覚えたこともある。日本では人前で「政治・宗教・野球の話はしてはいけない」と言われるが、以前のサイトでも、本サイトでも臆することなくそれ等の話題を取り上げてきた。日本でその三大タブーの話をすると不思議と人格否定されやすいのだが、一人一人意見が違うのが当たり前なのだから、意見は意見、人格は人格と分けることが正しいと、個人的にはそう思っている。

 

意見と人格を混同して評価してしまう者が自分から離れていった場合、それは”幸運”だと思った方が良い。いくら仲が良かったとしても、同じ意見の者としか絡まない人とずっと一緒にいるのは非常に困難からだ。その人とずっと一緒にいるためには自分を殺し、相手の意見に同調するしかない。そのような友人関係はいずれにせよ破綻する。意見は意見、人格は人格と分けて評価し続けてくれる者でなければ、友達関係になれないだけでなく、建設的な議論・抽象論すら話せない。従ってそう言った人が自分から離れていった場合は、幸運と思った方が良いのである。

 

過去に成功をし続けた人は、数多くのバッシングや誹謗中傷を受けてきた。誰かが何かを成し遂げようとすると、必ず批判が起こるのがこの世の中である。”出る杭は打たれる”と言われる日本では特にだ。しかし、それをも跳ね返す人間は最低でも何かを成し遂げることが出来る。バッシングによって今成し遂げようとしていること、目標としていることを諦めてしまうと、成し遂げることはもう叶わないのである。クリエイティブな能力や努力などもさることながら、”メンタリティー”というものが、何かを成すためには一番必要な力であると言っても過言ではない。そして、成し遂げた暁には”ええ加減な評価”ばかりをする人間や社会は、手のひらを返したように賞賛してくるだろう。

 

その時その時のバッシングに耳を傾ける必要などどこにもない。自らの意見や信じる道を突き進めばそれでいいのだ。テレビに出演している自らが嫌いと思っている芸能人たちを思い起こしてほしい。それなりのバッシングを受ける理由がある人物もいるだろうが、中には言われなきバッシングを受けている人物もいる。それでも彼らは、そんなバッシングからも負けずに立ち続けているからこそ、限られた人間しか出演出来ないテレビ番組に出演することを成し遂げているのだ。

 

バッシングに耳を傾ける必要がないという理由には、もう1つある。バッシングと言われるもののほとんどが、相手を見下し、自分が優れていることを誇示するためにする”自己満足”なものが多いことにある。さらには、日頃のストレスの発散のために行われているものもあり、自身にとってためになるバッシングというのは比較的少ない。もし本当にその人のために批判しているならば、議論の際に人格否定となる発言をすることはしないはずである。

 

もし、本当にその人の為に批判(=アドバイス)するとしたら、まずその人の取り巻く環境や状況から確認していき、対処法を考えた上で意見を述べなければ的確なアドバイスにはならない。しかしバッシングと言われるものは、大抵本人の取り巻く環境や状況は確認せず、自分の勝手なイメージから批判をしていこうとする。ターゲットを見つけ、いきなり勝手なイメージで人格否定をする、そんな意見は自身を恣意的に”傷つけようとする”悪意あるもので、耳を傾けわざわざ滅入りにいくようなことをすることは愚である。

 

他人の人生を生きているわけではなく、自分の人生を生きているなら、もっと自分の意見を大事にする人が増えて欲しい。他人からの評価が多ければ多いほど、優れた人間という社会なのかもしれないが、それを求め続ければ”自分”というものは無くなってしまう。それがストレスとなり、結果的に疲れ果て、引きこもりになってしまうだろう。もし評価される要素が何かしらによって崩れ去った時、死という選択が頭をよぎることがあるかもしれない。

 

”ええ加減”な他人からの評価に左右されない生き方を、良い意味でわがままな人生を多くの人間に送ってもらいたい。他人の評価を気にしがちな方たちには、強くなってもらいたい。以上は、私の経験談によるお話である。

 


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