好きなことを好きなだけ表現する

個人ニュース、コラム、写真などコンテンツ豊富なオピニオンサイト

自説|反論や批判はどんなものでも成り立つ、自分で本質を見出す意識が必要だ

 

小論文やディベートの授業を小学校から高校にかけて受けてきた。その時、自分の考えに沿った立場だけではなく、反対側の立場に立たされ、反対側の意見を無理矢理主張させられた。

 

無理矢理主張させられたと横暴ないい方をしたが、これはとても大事なことだ。どんな物事も一度は反対の立場に立ち、両方の立場を自覚させた上で自分の立ち位置を決定する。こうすることで、より自分の意見に説得力をもたらせる。

 

ただ、その時に感じたことは「あれ?どっちの立場にたってもそれなりに成り立っちゃうじゃん」ということである。自分の意見とは真反対の立場で意見を無理矢理述べたとしても、そこまでおかしなことを言っているわけではない。時としてこちらのほうが説得力あるのではと思うときすらある。

 

それを知ったとき、世の中にあるすべての主張が欺瞞であるかのように思えた。どちらの立場に立ってもそれなりに納得してしまうんだろうなと感じてしまうからだ。

 

そうなればどうやって自分の立場を明確にするかという話になるが、結局は自分の主観や経験、感覚など自分自身の基準で判断するしかない。それは実はどんな人間でも同じで、その人基準で主観的に自分の意見を主張している。

 

私個人の基準としては、形式よりも物事の本質を見ることであり、当たり前にとらわれないことだろうか。知識がなければないなりに考え、自分なりにそれなりの答えを出そうとすることだけは忘れたくない。

 

つまり、我々が声をあげている「正しさ」というものは、その人にとって「正しいこと」でしかなく、それを社会的全体として正しいなんて大きく言っているだけであり、それは実に欺瞞に満ち溢れたもので、かなり傲慢なことなのだ。

 

今年から「オピニオンサイト」という看板を掲げようとしているが、その実態は「自分の考えはこうである」と言うだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。これまで記事を書いてきたのも、「私の考えはこうです」と言っているだけであって、そこから社会を良くしていこうなどという崇高で壮大な計画ではない。

 

しかし、それでいいのである。もっと理想なのは、このサイト内でギスギスしすぎない健全な反対意見を掲載し、「私はこう思う」を増加させることだ。そこにあえて社会意義を作るとするならば、多様な意見を認めることと、自分の意見を持つことの大切さを知ること、知らない意見に触れることのたった3つだ。

 

アートや音楽などの芸術に接した際も、それぞれ好みがあって、「自分と他人って同じ人間なのにこんなに違うんだな」と感じることがあるだろう。意見も同じだ。どんな反対意見でもある程度成り立ってしまう以上、その人たちがどっちを選ぶかというだけであり、どういう基準でそれを選んだんだろう?という理由を知ることだけが、オピニオンサイトという代物の価値なのだ。

 

いかに物事の本質を捉え切るか。物事に対する考え方は人それぞれであり、何が正しいかなど、誰にもわかるわけがない。我々人類は、そして歴史はバランスを取ろうとし続けるため、その時期によって正しさのあり方は変化する。

 

それをわかった上で、あえて自分の意見を堂々と掲載する。たとえそれが社会的に正しくあろうとなかろうと、一人の人間が必死こいて考えた意見を掲載し、見ることが出来るなんて、とても幸せなことなのだ。画一的な考えしか許さない社会のほうが不健全だろう。

 

現代日本社会で謎に横行する「はい論破」という価値では、まだまだ実現するのは難しいかもしれない。深め合うこと、認め合うことが出来ない言論空間では、人格攻撃合戦やレッテル貼り合戦ばかりになり、ただの口喧嘩に成り下がってしまう。それが娯楽になっている面もあるが、健全な言論空間をリードすべき大学教授やマスメディアの人間ですら、人格攻撃やレッテル貼りを多用している。それは誰もが本質を見ることを忘れ、相手を打ち負かした口喧嘩に強い人間だけを評価しようとする社会だからだ。

 

自分なりの感覚を大事に、また相手の意見もいい意味で放っておける健全な言論が、この世に定着することを心から望む。我々の民主主義のレベルを一段あげるためには、くだらない底質な言論空間からの脱却が必要不可欠だ。


  

FavoriteLoadingこの記事をクリップリストに追加する 
SHIGEFIKA会員ログイン




パスワードを忘れた
新規登録
SHIGEFIKA会員とは
週間人気記事ランキング
最新記事
更新情報/Twitter
常論新聞
編集部からのお知らせ