配信:衣田 史景 2017年1月6日 3時00分配信 | カテゴリ:マスメディア, 教育, 社会
大きな社会問題となっているいじめ問題。いじめ自殺をする中学生や高校生が頻繁にニュースで取り上げられ、ネット上では加害者を特定し社会的な制裁を加える動きが活発化している。
少年法では、少年に対する実名報道は認められておらず、マスメディアの多くは実名報道を控えている。そこに納得がいかないネットユーザーが実名を公開し、「社会的正義」の名の下に拡散しているのだ。
しかし、そこには大きな危険がはらんでいる。正式な法的な手続きを取らない罰は私刑であり、被害者本人はともかく第三者や一企業などが私刑を下すべきではない。マスコミ業界では実名報道が前出と同じく「社会正義」の名の下にビジネスとして利用される面もあり、それが推定無罪の法則も無視した報道にも繋がっている。近代的な国家でありながら、メディアも国民も近代法の基本原則を理解していないことは由々しき事態である。少年法によって適切な罰則が与えられないという側面に関しては、十分議論しなければならない事案であることは間違いないが、国会できちんと法改正して運用するのが近代的な国家としてのあるべき姿だ。
応報的制裁という考え方は、教育的にも危険がはらむ。「悪いことをしたやつには何をしてもいい」という理屈を大人が率先して行えば、当然子どももその影響を受ける。そうなれば、子どものなかで気にくわない人間の悪いところを見つけ出し、「何をしてもいい」ことの正当化に繋がりかねない。結局「正当化したいじめ」を助長してしまう。悪いことをした人間に対し、どこまで制裁を下すかのルールもしっかり教えなければならないのだ。そして、大人がそれを自覚しなければならない。
被害者の立場に寄り添うことは、もちろん大事だ。しかし、その一面だけでは裁判など必要ない。被害者遺族の感情のままに罰すればいいことになる。人間を罰するには公正な裁判が必要で、制裁するにもルールに基づかなければならない。人間を罰することを簡単に考えている人間が最近多いように感じるが、「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉の通り、法的に基づいた客観的な証拠による制裁以外は許されるべきではないのだ。現に関係ない人間が晒される例があるというではないか。その危険性を顧みず制裁をくだそうとすることも「正義」なのだろうか。本質的にいじめ加害者と変わりないように感じるのは私だけだろうか。

