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自説|実名報道の在り方を変えよ

事件が起こった際の実名報道。被疑者の年齢、氏名、顔写真、住んでいる地域、生い立ち等がマスメディアによって公開される。近年では、実名報道されていない被疑者に対してはインターネットで被疑者の名前や住所を特定する動きまでも見られる。こうした被疑者を晒し上げて罰する動きが日本では活発化しているのだ。

 

しかし、私はこうした被疑者の段階での実名報道や晒し上げて罰する動きに対し、断固反対の立場である。逮捕された被疑者は、まだ嫌疑が掛かった状態の者であり、”罪人”ではない。起訴され、裁判所で有罪判決を受けた時点で初めて罪人となるのだ。それにも関わらず、顔写真を公開したり、実名報道や晒し上げるという行為は、疑わしきは罰せずという近代法の基本原則である”推定無罪”を無視し、”疑わしきを罰している”行為そのものなのである。

 

被害者本人や被害者家族が、晒して罰してやりたいと思うのは心情的に理解できるが、まったく関係のない第三者による私刑やネット・メディアリンチは、冤罪の可能性も含みとても危険だと言わざるを得ない。仮に冤罪だった場合においても、その責任を晒した本人やメディアが取れるのかと言えば、きっと出来ないであろう。晒している本人たちは”正義感”で晒しているつもりかもしれないが、本当に正義感があるならば、決定的な証拠がなく、状況証拠や、メディアの情報を鵜呑みにしただけで、他人の人生を台無しにする可能性がある晒す行為はしないだろう。あるとすれば、正義感を盾にした自己満足や暇つぶしや”祭り”でしかない。

 

仮に実名報道をするとすれば、有罪判決が確定した場合に限定するべきだ。被疑者の段階での報道は、A氏やA容疑者などで十分事件の概要は把握できる。”悪いことをした人間を、晒して罰したい”と言うならば、有罪判決が出たあとで実名報道するのが筋というものではないか。警察も冤罪の可能性を考慮せず、被疑者を簡単に公表してしまう姿勢はいかがなものか。被疑者の顔と名前がニュースで映し出され、それを見た家族や友人が「こいつ最低やな」と感想を述べるのを聞く度に、”推定無罪”とは一体何なのかと考えさせられる。

 

法治国家というのは、犯罪者を法律を基に司法機関が裁くものである。刑罰というのは、国家が認めた報復行為であり、私人が報復すると秩序が乱れること、適正な捜査が行われず誤解による冤罪等が起こりうるために、こうした制度が取られているはずだ。この第三者が”晒し上げる”という報復行為は、法治国家として望まれる姿では決してなく、恥ずべき行為である。

 

被疑者の段階で、国民が犯罪者と”決めつけて”しまうのは、日本の警察や検察の捜査能力が高い表れかもしれない。それは素晴らしいことだが、決めつけてしまうこととは1人の人生を台無しにしてしまう、大きな悲劇をうむことに必ず繋がってくる。国民一人一人が、被疑者の段階では、まだ”罪人”という訳ではないことをもう一度理解する必要がある。日本のネットでは他国の司法に対し、「遅れている」と蔑む声もあるが、上述した日本の状況を見ていると何とも言えない気分である。

 


  

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