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「愛の鞭」という名の支配欲

 

『愛の鞭』やめて、子供の脳に悪影響…厚労省」という17日付の読売新聞の記事を見た。記事には日本人の成人約6割が体罰を容認しているという結果の通り、某大手ニュースサイトの同記事のコメント欄には体罰容認しない動きに対して、多くの人が違和感を覚えているようだ。

 

この記事では厚生労働省が言う「愛の鞭」や「体罰」の境界線がいまいちわかりにくい。言うことを聞かない子どもに対し、ビンタを1発食らわすのも体罰なのか、それともそれ以上を想定したものなのかがわからない。推測するしかないが、「愛の鞭」は基本的にビンタ1発だろう。言うことを聞かない子どもに向かって、何発もビンタをすることを「愛の鞭」と表現することはなかなかしない。

 

厚生労働省の「健やか親子21」というウェブサイトに掲載されている「愛の鞭0作戦」のポスターを見ても、「子育てをしていると子どもが言うことを聞いてくれなくて、イライラすることもあります。つい叩いたり怒鳴ったりしたくなることもありますよね。一見体罰や暴言には効果があるように見えますが、恐怖により子どもをコントロールしているだけで、なぜ叱られたのか子どもが理解できていないこともあります」「子育てにおいて、しつけと称して、叩いたり怒鳴ったりすることは、子供の成長の助けにならないばかりか、悪影響をお呼びしてしまう可能性があります」などと書かれている。これを見る限り、ただ1発叩くという行為すらも、脳の発達に悪影響を及ぼすと解するのが自然だろう。

 

私自身も2歳から幼稚園に入れられ、劇のセリフを間違っただけでほっぺを叩かれたり、和太鼓やマーチングの練習でもバチで叩かれたり、胸ぐらを掴まれて怒鳴られる同級生たちを見てきた。それほど多くはないが、父や母から叩かれた記憶もある。幼稚園に行くのを嫌がり、年少にあがるまで幼稚園バスの中ではいつも泣いて先生を困らせていた。

 

それ以来、私の「良い子でいなければならない」という強迫観念は、そういった幼少期の「恐怖心」から植えつけられたものだ。外に出ると「良い子でいなければならない」と感じ、他人に本音をなかなか言えなかったり、なにをするにも「怒られないことを大前提」として動いた。大人たちにとっては「お利口=都合の良い子ども」だっただろう。しかし、それは私の本来の姿ではなく、ただの恐怖心だったのだ。しかし、大人たちはそういう私を褒め称える。自分自身を偽って、良い子として生きていく。こうして生きていくしかない。これが正解なんだと信じて疑うことはなかった。

 

同級生たちにも良い人だと思われなければならないと思い、世間が想像する良い子像と自分が想像する良い人像を掛け合わせた人間を自ら演じていった。効果は絶大で、ほとんど怒られることもなく(怒られる理由もなく)、気づけばそんな演じている自分を動かすことができなくなっていた。「怒られないように」「良い人だと思われるように」を第一目標にして、幼稚園や小学校低学年から振舞っていたのだから、私の中ではそれが自然であり、怒られることを平気でする他の人たちのほうがおかしいと思っていた。

 

ただそんな「良い子」を演じるのは、かなりストレスが掛かる。常に他人の目を気にしたり、自分の気持ちを押し殺さなければならない。そんな自分に耐えられるはずもなく、幼小中では休むことが増えて行った。休まなければやってられないほど、内心では疲れ果てていたのだ。特にいじめられたとか、嫌がらせを受けたとかいうことはなかったが、休みがちになっていた。幸いにも休ませることに関しては、そこまで厳しい家庭ではなく、休息期間を得られ中2の秋からはなんとか教室にあがるまでに復活した。

 

高校時代は落ちこぼれた高校に入学したことから、「優等生でありつづける必要性」が少し薄れ、もはや「ありのままの自分」を少しでも出せるようになった。だから特に苦痛に感じることもなく、伸び伸びと学校生活を送れたと思う。それでも対人関係は相変わらず「良い人」や「自分の理想」を演じきっていたが。そのぶんありのままの姿を受け入れられたいという欲求は他の人たちより強いように思う。

 

上述のように、私の経験からして歪んだ人間を作り出す「恐怖心による教育」は、やはり反対だ。

 

【次のページ】親の目線からの体罰

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