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テロ等準備罪賛成派の議論の仕方には違和感がある

今国会で最も注目を浴びているテロ等準備罪、いわゆる共謀罪について国内で活発に議論されている。なぜこれほどまでに注目を浴びているのかというと、テロ等準備罪は一般的な刑法と違い、一定の要件を満たせば実行前の段階で処罰することが可能になるからだ。

 

従来の刑法では実行して初めて犯罪行為が成立するとされてきた。一部、内乱罪などの重大犯罪についてのみ陰謀や予備罪として罪に問えるが、基本的には実行した段階で犯罪となる。しかし、政府はテロ行為を事前に防ぐためには計画(合意)や準備段階での摘発は必要不可欠だと主張。さらに国際組織犯罪防止条約締結するために国内法を整備する必要があるとして、テロ等準備罪を新設する組織犯罪対処法改正案を国会に提出した。

 

一方でその対象は277の犯罪にも及び、その適用範囲が広いことや、そのなかには一般人も対象になり得そうな所得税法や著作権侵害などが入っていることに懸念の声があがっている。28日に行われた衆院の法務委員会での審議で盛山正仁法務副大臣は「嫌疑をかけられた人は捜査対象となるが、通常の社会生活を送っている人は捜査対象にならない」と述べた。これは著作権侵害を行った一般人はもはや一般人ではないと言い換えることも可能だ。一般人かそうでないかよりも、テロ集団や暴力団などの組織に属する以外の人間が共謀した場合、罪に問われるのかどうかを問うたほうがわかりやすい。

 

無論、テロ行為を未然に防ぐためには準備段階で摘発する必要があるが、今回政府が提出した法案は「テロ等」と言う名の通り、テロ行為そのものだけではなく、マネーロンダリングや組織的犯罪集団の資金源になるものなども含まれているため、膨大な数の犯罪が適用されることになっている。実行前に犯罪と認定して罰を与えるというこれまでの刑法観とは違った特異な性質上、適用範囲は極めて限定的であるべきで、重大犯罪に限った組織的な殺人や現在の法律では対応できないサイバーテロなどのテロ行為そのものに限るべきだ。

 

このテロ等準備罪の議論を見ていると、気になる点がひとつある。それは賛成派の人々が「この法案に反対する人はなにかやましいことがあるからじゃないの」という常套句を主張しているからだ。もちろんそういう人もいるだろうが、当然そうではない人もいる。反対しただけでレッテルを貼り、反対しにくい環境を作り上げようとすることは議論をする際に最も卑劣なやり方だ。そのようなやり方で議論を進めても健全な議論にはなりえない。テロ等準備罪賛成派の人々のなかには、右派と呼ばれる人々も多く、安全保障関連法案の議論では、「戦争法」とレッテルを貼り続けていた人々を非難していたはずだ。それが反対に「テロ等準備罪に反対する人はやましいことがある人だ」とレッテルを貼るようになっている。私からするとどちらも似たような行為であり、実は同じ穴の狢だったのだなと認識している。

 

反対する声のなかでも、捜査機関の権限が拡大し、市民が常に監視される「監視社会」になるのではないかという懸念も理解できる。なぜなら準備段階で処罰するためには、通信記録の傍受など生活している人間をある程度監視する必要がある。金田勝年法相は通信傍受を用いることは考えていないと述べていたが、将来的な導入については否定をしなかった。個人のプライバシー権に大きく踏み入る話であるだけに、たとえやましいことはなくても「このやり取り見られているんだろうな」と常に気を使いながら話すことに抵抗がある人がいてもなんら不自然な話ではない。私個人としても人間としてのある程度の自由さは認められて然るべきものだと考えており、権力が国民を監視することは厳しく制限し、最小限に留めるべきだ。そう言った声を無視した議論のやり方は乱暴であり、民主主義国家としてはあるまじきやり方だ。

 

やましいところがなければ監視されても良いはずだというなら、極論を言えば24時間家庭内外で監視されても何の問題もないのだろう。それに抵抗を感じるならば、日常的な通信傍受に抵抗を覚える人がいることに真摯に耳を傾けなければならない。たとえやましいから反対する人間がいたとしても、やましくない人間が存在する以上、レッテル貼りではなく、建設的な議論を交わす必要があるのは当然だ。近年では権力側を信用しきっている人間が多くなっているように思うが、軍や警察・検察などの公権力の権力の乱用については、主権者である国民がしっかり見張っておかなければならない存在なのは未来永劫変わることはない。

 

私は自らの考え方に基づいて、権力であっても、被支配者であっても良いことは良い、悪いことは悪いと判断するべきだとおもうが、最近のネットの議論ではあまりに単純すぎる議論が横行しているように思える。左派を嫌う人は右派の考えに倣い、右派を嫌う人は左派の考えに倣うというその程度の考えに基づいているとしか思えない。たとえどんなに稚拙な結果に導かれようとも、本当に自らの頭で信念を持って考え出した答えを言い争っているのだろうか。本当に議論を深めようと考えているならば、レッテル貼りや人格攻撃が横行する必要もなく、相手の意見を真剣に考え、それに対するまともな考えが帰ってくるはずである。

 

ネットでそのようなことを期待しても仕方ないのかもしれないが、情報の多くがネットを使ってもたらされる現在、ネットでの議論ももう少しレベルアップしなければならないことはだけは間違いない。


  

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