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自説|左翼・右翼と政治的レッテルを貼ることに意味はない

「左派」と「右派」ーー政治を語れば避けては通れない。「政治的立場」を表す言葉だ。語源はフランス革命後の国民議会で、左側に座っていた革新的思想の者たちを「左翼」、右側に座っていた保守的思想の者たちを「右翼」と呼んだことにはじまる。

 

しかし政治的に右派と呼ばれていても、経済的には政府の介入もやむを得ないとする左派の可能性もある。右派のなかでも当然政策のなかでは意見が分かれる場合もあり、それは左派でも同じだ。ポリティカル・コンパスを用いて、自分自身がどんな立場であるかを知るには良い指標になるが、残念ながら立場が違う相手への「レッテル貼り」の手段として使われてしまうのが現状だ。

 

そもそも一括りにすることに、相手の意見を受け入れようとしない傲慢さを感じる。自分と意見が違えば「右の人間」、「左の人間」と言って見下す傾向にあるが、それによって議論が深まるとは到底思えない。

 

相手や自分が右か左かを決めることになんの意味があるのか。帰属意識やアイデンティティーによるものなのかもしれないが、本来様々な政治的な問題に対し、主体的に考えた結果が「左より」だった「右より」だったに過ぎないはずだ。ひとつの政治的な問題で「右より」だったからといって、その人物の政治的立ち位置がすべて「右」というわけではない。

 

そこにこだわりすぎていると「自称・中道派」も含め、主体的に考えているとは思えない。流れを見て、「左」「右」の流れに沿うか、なんでも間を取ろうとして自分の立ち位置を決めているだけだ。そこには信念も、建設的な姿勢も、思考も存在しない。

 

レッテルを貼られることを恐れ、自らの意見を鞘におさめて別の刀を抜く人間をこれまで何人も見てきた。自由な言論活動を妨げることにもつながる「レッテル貼り」は決して容認できない。

 

自分で考えた結果ならば極論になることもあれば、当たり障りもない結論が出ることもある。左派の意見に近づくときもあれば、右派の意見に近づくときもある。鞘におさめてしまった人間はレッテルを恐れることなく、主体的な意見を述べるべきだ。

 

レッテルを貼って相手を受け入れないよりも、意見が違う者同士が積極的に議論するほうが自らの見識を深めることができる。意見が同じ者同士が、意見の違う相手を罵倒しているだけでは何も変わらない。ただの自慰行為そのものだ。レッテルを貼る人間が多いことは、この国にとって憂うべき大きな問題だ。


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