配信:衣田 史景 2016年5月4日 1時04分配信 | カテゴリ:安全保障, 政治・行政
国民主権国家として、国民が選挙に行き、政治に参加するのは現在の民主主義の根幹を成すものだ。しかし、当たり前でありながら、国民を最も悩ますのは「完璧に同意する政策」がないということ。どこの政党・政治家を支持していても、政策の中には合わないことも必ず出てくる。「全く無い」というのは、奇跡的か、何も考えなていないかのどちらかであろう。そこで先に行われる参議院選挙で争点になるであろう「改憲」について書いていきたい。私は基本的には“改憲”というスタンスには賛成なものの、自民党改憲草案に全面的に賛意を示すものではない。無論それは自民党だけでなく、すべての政党に言えることだと前置きしておく。
日本国民への価値観の押しつけ
基本的な話だが、憲法というのは国家権力の暴走から、個人の権利や自由を守るために制定されているものだ。近代的な憲法ではそれに付加して国民への義務を規定している。現在の日本国憲法における国民の義務というのは「納税」「教育を受けさせる」「勤労」の3大義務であるが、一方で日本国憲法第99条の「憲法尊重擁護義務」では、「天皇や国務大臣、国会議員、公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定められているものの国民に義務は課せられていない。そこから日本国憲法は基本的に公権力を監視する目的であることがわかる。
ところが自民党の憲法改正草案を見ていると「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」(第3条2項)、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」(第12条)、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」(第24条)、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」(102条)とある。
私は国旗や国歌を尊重しているし、国歌斉唱の際も今まで起立しなかったことはない。家族が互いに助け合うことにも異存はない。一見、道徳的に当たり前とも思うことを憲法に明記しているのだが、ただ国がその価値観を個人に押し付けるべきではない。尊重している人間も、していない人間もいても良いのが「自由を享受する」ということだ。当たり前に聞こえることでも、現実には家族と不仲であったり、どうしても助け合えない状況もあり得る。憲法尊重擁護義務では天皇を外し、代わりに国民が義務を負うなど、どうしても自民党の憲法改正案は国民への価値観の押しつけや、護憲派の主張する立憲主義をはきちがえているという主張にも納得できる部分があるのだ。

